LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

住宅政策について②

【要点】
 総花的な高度経済成長期と、1970’s半ばからの持家転換。民間賃貸の居住空間の低劣さの理由。

 

【本文】
 戦後の日本政府は、いかにして国民の住まいを持家へと誘導していったか。
 平山によれば、1970時代半ばから政府が明確に借家と差をつけて、持家供給を推進していったという。
 1960年代の日本は、持家と借家のどちらかを優遇するという方針をまだとっておらず、総花的な住宅政策だった(1)。むしろその頃は、東京、大阪、愛知などの大都市圏に人口が急激に集中していったことにより、借家社会に傾いていた。実際に、1958年の持家率は約70%だったが、1973年には約60%と持家率は低下している。1960年代は、多くの若者たちが大都市圏へ出稼ぎにきて民間借家で暮らしていた。
 ところが、1970年代の石油危機による高度経済成長の終わりをきっかけにして、日本政府は住宅政策を景気の調整策として用いるようになったという。持家の供給は、公営住宅などの借家よりも一つの事業にかかる時間と労力が少ないので、その時の景気変動に応じて柔軟に対応できる。さらにいうと、持家なら、政府は住宅それ自体の供給ではなく、住宅ローンを供給して建設は民間に任せるという方法に甘んじることができた。要するに、借家よりも持家の方が経済調整策として都合がよかった。
 実際に、地方の公営住宅や住宅公団のように、政府が直接供給するタイプの住宅は、1970年代半ばまで建設量が上昇しつづけるが、そこからは大幅に減少に転じている。一方で、公費によって住宅ローンを供給する住宅金融公庫は、1970年代半ば以降もその活動量を増やしつづけていった。前者はおもに借家や分譲住宅を供給しており、後者はおもに持家を供給する主体だったので、ここに持家と借家の差を開く政策がとられていたことがわかる。
 他方では、民間賃貸にたいする政府の支援策はほとんど無かった。むしろ、当時の借家法では、借家人の住生活が保護されており、家主は法的に不利な立場にあったので、賃貸住宅は、あまり利益の見込める事業にはならなかった。そうすると、民間企業によって良好な借家が建設される環境ができなかったため、おおむね木賃アパートなど日本の民間借家の居住空間は低劣なものとなった。したがって、多くの国民、とりわけ都市へ流入した若者たちは、この低劣な居住空間から脱するため、持家を指向していったのだという。
 平山の議論は、家族主義の観点などほかにもあるが、ここでは重要だと思われた部分だけ紹介している。

 

【付け加えて】
 欧州に比べて、日本の借家率が低いということを示すには、公営住宅の活動量または政府の支援が欧州のものよりも少なかったということを明らかにしなければならない。ヨーロッパの住宅政策事情もあとで調査を進めておきたい。

 

(1)住田昌二『住宅供給計画論』参考