交通政策について①
【要点】
新幹線の交通政策。「通勤革命」を提唱した角本良平。第一次首都圏基本計画への批判。新都市建設への批判。郊外整備という角本の方針。
【本文】
前回の更新からけっこう時間がたってしまった。本当は月イチぐらいで出したいのだけれど、仕事が忙しくなってくると、なかなか研究に時間が割けない。もっとも、長い月日のかかるタイプの研究なので、時間がかかる分にはわるいわけではない。
角本良平という元国鉄の職員がいた。彼は、新幹線という新しい交通機関の出現にともなって、新しい交通政策を唱えようとした人である。
1966年に『通勤革命』という本を出版しており、そこには当時の東京都における過密問題について、彼自身の対応策が記されている。東京オリンピックを終えた頃の東京都心というのは、通勤混雑、住宅不足、地価高騰、こういった人口集中による問題に悩まされていた。東京の人口集中は、今から50年以上も前から問題視されていたのだ。
1960年代というと、東京オリンピックに合わせて高速道路や新幹線といった大規模かつ高規格な交通機関が建設されていく時代でもある。角本はその中で東京の過密問題に対処するために、新幹線を用いることを提案しており、それまでの在来計画を却下している。それが良いかわるいかは別として、交通政策について考えるために彼の議論を追ってみたい。
当時の在来計画は、「第一次首都圏基本計画」のような都心への人口流入抑制論が主流だったという。第一次首都圏基本計画というのは、東京の既成市街地の周りに近郊地帯(グリーン・ベルト)を設置して首都圏の拡大を抑制し、さらにその外縁部に衛星都市を設けて移住してくる人口をそこへ吸収させるという趣旨のものだった。
角本はこれを「大ロンドン計画の引き写し」に過ぎず、東京の事情をまったく無視したものであったと批判する。角本によれば、大都市には三つの発展段階(成長、停滞、分散)があり、ロンドンのような最終段階にある都市であれば抑制政策は効果的かもしれないが、東京のような成長過程にあった都市には事態悪化を招いたという。
まず、戦後になってなお人口が増加する東京都心において、流入抑制を無理に行おうとしために、開発抑制をしているはずの市街地外縁へと違法にも宅地が造成されていった。その結果、東京はグリーン・ベルトの形成に失敗してしまったという。(1)また一方では、流入抑制に重点をおいたために、既成市街地における鉄道建設などの投資を怠っていたことから、通勤混雑などの過密問題を引き起こしてしまった。人口流入抑制論が、当時の東京を混乱させてしまったと言いたいのだろう。
さらに角本は、衛星都市や副都心、あるいは首都移転といった新たに都市をつくりだすという考え方にも反対の立場をとっていた。東京に移住してくる人々は主にオフィス・ワーカーであり、全国規模の管理機能を担う行政機関や民間企業の従事者であった。すぐに移転できるような工場等の労働者ではなかった。首都への集中はそういった管理組織の経済合理的な判断にもとづくものであり、首都でない別の場所に都市をつくりだしても、そこに人口と経済活動を誘導させることができるわけではないという。角本は東京の巨大都市化を容認するという点で、丹下健三の『東京計画・一九六〇』に好感を抱いていた。
したがって、あくまで人口と経済活動の都心集中はやむを得ず、都心で働く層のために郊外地域を整備すべき、というのが角本の方針であった。ちょうど角本の見通しによれば、1960年代後半から東京の発展段階は停滞から分散期へと差しかかっていた。(2)だから、充実した郊外地域の整備が、彼にとっては喫緊の課題だったようだ。
では、その郊外地域をどのようにしてつくりだすというのか。新幹線が話の中に出てくるのは、もう少し先になる。
(1)石田頼房『未完の東京計画』によれば、グリーン・ベルト失敗の主因は、グリーン・ベルトに指定されるはずだった市町村および住民が、開発抑制に反対して自ら宅地分譲などの開発行為をおこなったことだという。
(2)実際、東京23区の人口は1960年代後半から停滞しはじめ、1970年頃から減少に転じている。(なお、2000年頃から再増加し始めている。)