LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

『余韻都市』について②

 石川栄耀は、大都市住民には個人主義的な性質があると指摘していた。少し長いが、石川が大都市住民の特徴について述べた部分を引用する。

 之は居住に於てはその植民地的な貸家的な性格と相まち、隣人をして最縁遠き、無縁の木石たらしめる。それに又、大都市はその大量な群集を迅速に処理する為に自ら群集生活乃至集団処理の技巧として、その構成分子たる市民に対する扱ひを水準化してしまふ。

 即ち総ての市民を同等に待遇し何等の区別を附せしめぬ様にする。其の結果自ら市民生活個々に対して社会の容喙が浸透し得ない様になるので、結局に於て市民各自がその水準化の作用故に所謂市民的自由(之こそ田園人に最魅力ある大都市吸引力である。)を確得する事になる。そして大都市存立の本質たる功利主義と相まって、そこに利己的な主感主義、自由主義が開花の縁を与えられる事になるのである。かくして先づ「人口の大量」はその個々人の近代的性格と協働して、大都市人をして自由ではあるが、感覚的で、冷淡な個人主義的性格たる可き様導くのである。

原文ママ

 強引に要約するとこうなる。大都市では行政や企業が大量の人口を処理するために、住民たちを隣人との区別なく水準化して扱おうとする。そのような生活環境は、市民に自由を与えるが市民どうしを無関心にさせ、利己的な個人主義へと向かわせる。
 このような石川の大都市批判は、現代社会でも通用する話であろう。この大都市住民と個人主義の関係は、ニューヨークで街路空間が創出された事例について、興味深い示唆を与える。
 ジャネット・サディク=カーン氏は、J.ジェイコブズを引き合いに出して、街路近隣につくられる人間関係の重要性を主張していた。確かに、そのようなジェイコブズの解釈は正しいように思われる。ジェイコブズは、街路のつくりだす近隣関係が地域の治安に貢献するだけでなく、「草の根の運動」の力の源泉になると考えていた。

 都市の街路近隣は、自治においてもう一つの別の機能を持っています。そしてこれはきわめて重要なものです。その街路だけでは扱いきれないほど大規模な問題がやってきたときに、助けを有効に活用するという機能です。(中略)機能する地区というのは都市全体の生活の中で、一勢力として見られるだけの規模を持っていなくてはなりません。計画理論の「理想的」近隣は、こうした役割ではまるで役立たずです。地区は、市役所相手に戦えるくらいの規模と力を持っている必要があります。

 街路が地域の秩序にとって大事だという点は、サディク=カーン氏も同じ意見であろう。
 ところが、サディク=カーン氏は、ジェイコブズが言った「草の根の運動」を批判して、今度はR.モーゼスのようなトップダウン型のアクションを支持する。

 ジェイコブズは、近隣や都市の街路にこそ都市再生の糸口があること、そして再生を主導するのは結局のところ地域住民であることを理解していた。しかし、活気もなく危険な街路の状況が数十年続いた後で明らかになったのは、市場原理や民意に任せたり、もしくは何もせずインフラがボロボロになるのを待ったりしていたのでは、都市は変わらないということである。都市を新時代にふさわしい姿に更新し、ジェイコブズのビジョンを達成するために今こそ必要なのは、次世代の道路を築いていくのだという、モーゼスのようなビジョンやアクションなのである。

 確かに、リーダーシップを発揮して、権力に基づき上から開発していくやり方であれば、迅速に目標を達成できるかもしれない。
    しかし、住民の話し合いを待たず、市民の批判を押し切って開発を進めるべしという考え方は、民主主義を否定する見解に繋がる。そのようなトップダウン型の施政は、リーダーが賢明であればまだ良いが、住民の利益を顧みない悪質な人間がトップに選ばれたとき、悲惨な事態を招くというリスクを孕んでいる。まさに、モーゼスなどがその事例といえるだろうし、日本でもそういった事例はあるだろう。(1)
    サディク=カーン氏は、持続可能な社会を実現するために、トップダウン型の施政を推奨しているようだが、近現代史を振り返れば、そのようなやり方は持続可能な政治ではあり得ないはずである。
    なぜ街路近隣のための施策なのに、住民による自発的な判断ではなく、エリートによる非民主的でトップダウン型の政治が求められてしまうのか。それは、ニューヨークというフィールドが大都市だからであるように思われる。
    石川がいったように、大都市では住民が地域全体にとっての利益不利益に基づいた判断や行動をやめてしまい、個人主義的になる。そうすると、自分の居住地とは直接関係のない開発に関しては他人事となってしまうが、いざ自分が不利益を被る場合に関しては、つよい反感を示す。つまり、NIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の状態が生み出されてしまう。このNIMBYの状態は、サディク=カーン氏も批判しているものである。

 ジェイコブズが都市システムの複雑さに対して神経を研ぎ澄ましていたのをよそに、何世代にもわたって、住民たちはNIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の姿勢を崩さず、彼らが街路に望まないもの(高速道路、建設工事、住宅と商業の複合施設など)に、断固反対する態度を取ってきた。ジェイコブズが目指したような、親密で、活気があり、ひらかれた、柔軟な公共空間を実現しようとする人はかつてないほどに増えたにもかかわらず、結局のところその構想は現実のものにはならなかったのだ。

    サディク=カーン氏によれば、住民たちのNIMBY的な姿勢は、街路空間を脅かす事業だけでなく、街路空間をつくりだす事業においても見られたという。もし仮に、優れた街路空間をつくる運動を近隣で起こしたとしても、不利益を被る人間からは強く反対され、また別の人間にとっては他人事にされてしまい、広い大都市の一部の声として片付けられてしまうというわけである。
    このように「草の根の運動」に成果が出ないのは、ニューヨークでは個人主義的な市民による抵抗と無関心により、街路近隣での活動が政治的に無効となってしまうからであろう。
    したがって、大都市にこだわって都市計画を実行するのであれば、民主的な議論を諦めて、首長や国家などの権力と結び付き、トップダウンでやらざるを得なくなるというわけだ。こうして、住民のための街路空間をつくり出そうとして、住民と闘う羽目になってしまう。
    もっとも、サディク=カーン氏は、自転車レーンの敷設を進めていくにあたり、コミュニティボードでの承認を得ている事実を根拠に、民主的な手続きに基づいていることを主張している。しかし実際には、メディアでの批判が相次ぎ、特にプロスペクトパークウエストでは住民による組織的な反対運動が生まれ、訴訟騒ぎにまでなったというのだから、民主的な手続きはクリアしていても、民主的な議論は不十分だったことは否めないだろう。また、ニューヨーク市当局の間でも、彼女をめぐっては衝突等があったという。(2)
 しかし、そのような悪戦苦闘を強いられてしまうのは彼女のやり方がトップダウン型だからであり、また理不尽な反対運動や根も葉もない報道であったとしても、フィールドが大都市である以上、それは仕方がない話であろう。その意味では、大都市を礼賛した上で、トップダウンを推奨するサディク=カーン氏の主張には一貫性がある。
    市街地内で自転車レーンや歩行者空間をつくりだすことは良いことなのかもしれない。しかし、市民や当局の間で軋轢を生み出すような方法でつくり出される街路空間は、ジェイコブズが目指した街路近隣の姿とは少し違うだろうし、少なくとも石川の目指した「盛り場」の姿とは異なるのではないか。

 民主的な議論や少数派の意見といった、草の根の価値にこだわって都市計画を行うのであれば、世界に冠たる大都市化を諦めて、石川に倣って、小都市指向でやらざるを得ないというわけである。

 

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(1)https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%92%E8%9D%95%E3%82%80%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A9%E8%8F%9C-%E5%8F%8E/dp/439611656X
(2)https://www.nytimes.com/2011/03/06/nyregion/06sadik-khan.html

【参考文献】

・『皇国都市の建設』

・『アメリカ大都市の死と生』

・『ストリートファイト

『余韻都市』について①

 最近読んだ『余韻都市 ニューローカルと公共交通』には、随所において石川栄耀について触れられていた。
 具体的には、「3章 劇場と都市の変遷からみる歩行者と公共交通が連携した計画の重要性」では、劇場が盛り場において重要だとする上で、石川栄耀は「盛り場」研究の先駆者として語られている。

石川は、都市計画愛知地方委員会を中心に設立された「都市創作会」の機関誌『都市創作』(1925~1930年)への寄稿「郷土都市の話になる迄」において、業務でなく余暇を中心とした都市計画を提唱し、週末だけ余暇時間を楽しむような街ではなく、日常的に「夜」の時間をそれに充てられる街の姿を描いている。

 そして、石川の「休養娯楽計画」に言及して、その空間構成は現代においても新しい都市再生の時代のモデルになるというのである。
    確かに、石川が都市計画において「盛り場」、つまり商店街や娯楽施設を重視していたことは疑いようがない。実際、彼の代表作の一つである『皇国都市の建設』でも、盛り場という空間の役割とその歴史については特筆されている。
    しかし、石川は、盛り場の重要性を唱える一方で、それと同等かそれ以上に大事なことも主張していた。
 その点は、「7章 これからの都市・余韻都市」の中で吉見俊哉氏により、少し触れられている。

吉見氏:石川栄耀の戦災復興計画の中で、彼は東京を巨大化しようとは考えておらず、東京の人口をもうちょっと抑えて、その中に文教地区もそうだし盛り場もそうだけど、様々な生活圏をつくっていく構想があった。

 石川栄耀は、戦災復興計画の立役者であり、その際には東京の巨大化を防ごうとしていたということである。
 彼の主著『皇国都市の建設』には、大都市になった東京に対する批判と、大都市を分散させるメリットおよびその方法について、詳細に述べられている。石川は、それを「大東京百年の大計」とまで言っていた。

大東京百年の大計としては理論的にはあく迄東京を政治、工業いずれかの単能都市として、その人口を百万以下、出来得可くは五十万代に限るべきである。而して八百万の人口の中地方に疎散し得るものは疎散し得ざるものは十分なる交通設備の上衛星都市に分割分散すべきである。

 『皇国都市の建設』の副題は「大都市疎散問題」だった。要するに、石川の思想には大都市分散という、外せないもう一つの山がある。
    こういうと、石川栄耀には「盛り場」論者という面と、大都市分散論者という二つの側面があった、という程度の話で片付けられてしまうかもしれない。
    しかし、実際の石川の主張は、大都市分散ありきの「盛り場」論だった。「盛り場は大事だ」という話と、「東京一極集中はやめよう」という話は石川の中で繋がっている。
    石川は、東京のような大都市を批判していた。大都市化した空間では、功利的な資本主義が小売市場そして居住空間を占拠してしまい、人々を孤立・堕落させてしまうという。

誠に今日の都市悪の大部は、自由放任の資本主義が小売部門を通し民族の堕落を導き、又同系資本活動が居住部門を通し乱雑孤立の環境を構成し、又その変形たる交通機関が乗客相互の態度を低落せしめつつ市民性格の大部を形成したのであると云える。又これに拍車をかけるものとして功利の精神が存在してる事も否む事は出来ない。

 石川は、大都市の盛り場を「大衆心情低落化」を引き起こすものだとして、国民に悪影響があると指摘していた。だから、彼に言わせれば、大都市の盛り場は邪道ということになる。
 そういうわけで、石川は大都市化した東京を、まずいくつかの小都市に分散させることを提案した。彼によれば、小都市化のメリットは、小都市なら住民の連帯意識が生まれやすいこと(石川はこれを「隣保性」と呼んでいた)、そして農村との関係が深くなることであるという。小都市と農村がセットになり自立的な地域を全国につくり出すことが、石川の念頭にあった。「小都市の盛り場」こそ石川の推進するものだったといえる。
 ところで、『余韻都市  ニューローカルと公共交通』の中では、ジャネット・サディク=カーン氏によるニューヨークの歩行者空間創出の事例が紹介されている。

市元交通局局長のジャネット・サディク=カーン氏は街路空間の再配分を行い、車中心の道路を歩行者中心の道路に変えてニューヨークの魅力をアップさせたことで知られる。
 氏が手がけた改革で最も有名なのはタイムズ・スクエアの広場化である。ブロードウェイの四二丁目から四七丁目までを歩行者のための道路にする実験に取りかかり、結果として、タイムズ・スクエアの人流が増加し、車道は人のスペースへと変貌した。

 石川栄耀も、盛り場においては歩行者中心を唱えて、街路に自動車が通行するといったことを批判していた。歩行者空間を重視する点で二人は同じ意見だったと言える。しかし、サディク=カーン氏の方は、大都市肯定派である。

 もし地球を守りたいのなら、ニューヨークに引っ越してくるべきだと私はよく話す。ニューヨークでなくとも、大都市であればどこでも結構。(中略)何百万もの人々の住まいを、数百もの農村や郊外に広げるのではなく、高層住宅に集中させることで生まれる都市的なエネルギーこそ、実際に多くの人々がニューヨークのような大都市に文化的、専門的、政治的側面から惹きつけられる理由である。

 サディク=カーン氏は大都市指向であるが、石川栄耀は小都市指向だった。この点で両者は全く異なる方向をむいているのだが、私は石川の方が正しいのではないかと思っている。
    それについては、また追々述べていきたい。

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【参考】

・『皇国都市の建設 大都市疎散問題』

・『余韻都市 ニューローカルと公共交通』

・『ストリートファイト 人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』

田村明④

【過疎地域の建設業】
 以前に過疎地域の公共事業が立ち行かなくなる懸念について書いた。過疎地域の建設業を維持するためにはどうすれば良いか。
 一つ考えられるのが、人手が足りなくても最新の技術で補おうとする選択だろう。つまり、ICTやロボット技術等を地域に導入しようということだ。これなら人手不足が補える上に、作業員一人当たりの作業量もぐんと上がるので一石二鳥だろう。理想的な選択に思える。
 ところが、そういう自動運転のような高い技術力をもっているのは大企業であり、田舎の企業は高齢者が多く簡単に導入できない。また、中小企業なので設備投資の面からも簡単に導入できないだろう。ICTによって人手不足を一気に解決しようとすると、地元の小企業の仕事を大企業に代わってやってもらうという方針になる。
 ところで、過疎地域のような農村にとって、たとえ中小企業でも建設会社は重要な経済的アクターである。もし地元の建設会社の仕事を大企業がとってしまうということになれば、地元の建設会社はつぶれて、地域経済を大きく毀損してしまうことになる。地域社会を守るために最新技術を導入した結果、地域経済を壊してしまうというのでは本末転倒だろう。
 それに、自動運転化されると、普段の施工は効率的になるかもしれないが、そこで災害などが起きたときに現地で対応できる人員を減らしてしまうことになる。ロボットや機械は、大規模な作業量を何度も反復する、ルーティン的な施工を得意とするだろう。しかし、災害などの緊急事態では、どうしても人間、とりわけ「地域のことが良く分かっている人間」がいなければ、臨機応変に対応できないのではないか。
 だから、単にICTを導入すれば過疎問題を解決できるという考えには賛成できない。まずは現地の作業員として、将来ある若い人材を回復させることだろう。また、仮にICTを田舎の企業に導入するのであれば、そういった設備投資に意欲をもつ人材がいなければいけないが、それも若手であろう。結局、最新技術を導入するにせよ導入しないにせよ、若者を農村に回帰させなければ解決には至らないことになる。

 

【田村明④:田村の東京計画論】
 田村は大都市抑制論者だった。だから東京の巨大化には批判的であった。
 1977年の著書『都市を計画する』では、田村はこう述べている。「一〇〇〇万人をこえる巨大都市圏の一点集中型構造には限界があり、適当なまとまりのある単位で区分した多核多心構造に再編成する必要がある。巨大都市の一つの核の単位を過度に膨張拡大させないためには、安易な放射状交通機関の延長拡大は防止さるべきである。(原文ママ)」そして田村は、東京の一極集中を緩和する手段として、首都に所在する行政、司法、学術といった国家の中枢機能をそれぞれ各地方に移転させる、首都機能分散論を主張していた。
 横浜の都市計画においても、東京一極集中の緩和を意識している。
 港北ニュータウンは、一般的には乱開発を防止するためのニュータウンであったと言われているが、田村によれば、東京のベッドタウン化を防ぐための開発でもあったという。だから、港北ニュータウンのセンターには市営地下鉄は入れていたが、東京行きの鉄道路線を入れないようにしていた。実際、かつて国の都市交通審議会の間では、港北ニュータウンのセンターへ目黒から地下鉄を延伸する計画が立案されていたそうだが、田村はこれを阻止していた。
 また、横浜市営の地下鉄網は、「横浜を東から西に横断していく路線をつなげて結節点をつくり、東京一極集中の流れを緩和しようとしている」ものだったという。田村は、東京へ流れていく人口を食い止めるため、横浜市内の小都市を繋いだ都市軸というものまで構想していた。「いちばん北が田園都市線のあざみ野で、南へ港北ニュータウンのセンター、新幹線の止まる新横浜駅横浜駅周辺、みなとみらい地区、関内、本牧が、それぞれ多少性格の違う都心や小都心を形成し、それを結びつけることにより、東京への流れを少しでも食い止めようという軸線だ。」

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 要するに田村は、横浜市内の郊外や小都市が東京都内と接続し、東京に従属する地域となることを回避しようとしていた。郊外が東京に従属することは、事実上の横浜市域の縮小を意味する。
 そして、田村が大都市抑制論者であることを決定づける著作として、『江戸東京まちづくり物語』(1992)がある。そこで田村は、東京の大都市化は後世に「12のツケ」を残すものであるとして、批判を繰り返していた。その15年前の著作『都市を計画する』とは、細かい論点において主張内容に若干の違いはあるものの、「東京以外の地方都市を引き上げていくべき」ということや、「将来的には首都の中枢機能を地方に分散させたい」といった根幹の方針には変わりがなく、東京の巨大化を抑制すべきという田村の姿勢は一貫している。
 12のツケの中で、特に重要だと思われることが二点ある。
 一つは、大都市化は災害のリスクを高めるという点である。これは細かい説明は不要であろう。地震であれ台風であれ、国家の重要機関が一ヶ所に集まっていれば、一度の大災害で安全保障上の問題に発展する。巨大都市は災害に弱い。それは直近だと新型コロナウイルスの猛威をみても明らかである。
 もう一つは、大都市化すると、コミュニティが崩壊するという点である。大規模な道路建設、宅地造成、あるいは再開発事業といった、大都市化を指向する都市計画は、人口の急激な流入を招く。新しく移住してきた人たちではコミュニティを築きにくいし、また都市としてのエリアが大き過ぎると、住民としての一体感も生まれにくい。そういう環境では、市民が孤立してしまいやすいことを田村は指摘していた。
 そうした上で田村は、大都市抑制の論理を肯定していた。戦後東京では人口の流入制限が行われていたが、田村はこれを評価していた。さらに、東京都心では「もう交通機関を便利につくってゆくことを抑えた方が良い」とまで言っていた。E.ハワードの田園都市構想、グリーンベルトなどにも肯定的だった。
 田村が大都市抑制派であったことは明らかであろう。
    東京の大都市化に疑問を投げかけたのは、自治と都市計画という双方の観点からだった。大都市化するとコミュニティが崩壊してベッドタウンも市外に溢れるから自治が成立しなくなってしまう。また、急速に都市化すると緑地などのオープン・スペース、憩いの場が確保できなくなるし、何より学校用地などが取得できなくなってしまう。そういう経験を横浜で経ていた田村だから、東京の本質的な問題もくっきり見えていたのだろう。
 田村は、都市計画と地方自治を一緒くたに考える貴重な人物だった。自治がなければ都市計画が不可能だということを理解していたし、また都市計画が自治を左右するということも分かっていた。
 田村から学べることは膨大にあり、全てを容易に文章化することなどできない。書ききれないことがたくさんあるし、読み落としもたくさんあるだろう。田村の著作は、今後の人生でも何度か読み返すことになると思う。


ー-
【参考】
・『都市を計画する』、『江戸東京まちづくり物語』『都市プランナー 田村明の闘い』

・12のツケ「災害へのツケ、地価へのツケ、住まいへのツケ、通勤へのツケ、交通渋滞へのツケ、緑とオープンスペースへのツケ、水・エネルギーへのツケ、健康へのツケ、廃棄物へのツケ、歴史的遺産や文化へのツケ、社会的弱者へのツケ、コミュニティへのツケ」

田村明③

 群馬県は、令和元年の台風19号によって多大な被害を受けた地域の一つに入る。

 およそ2年前の台風であり、その頃の自分は大学生だった。テレビをつけると「自分の命を守る行動をしてください」みたいな話ばかりしていて、危ないと思ったので大学へ避難しに行こうとしたが、家の支度が終わった段階で、急にめんどくさくなって、普通に寝たのを覚えている。

 仕事が始まった頃は、巷はコロナで騒いでいたが、仕事の方は台風19号による災害復旧工事で一色だった。自分もいくつか工事を発注して復旧に携わったが、その中で分かったことがある。

 地方では、工事にかかる人がなかなか集まらない。集まったとしても皆高齢だ。「職人さんが手配できない」と言われて、工事がなかなか始まらなかったり、始まっても進捗がわるい場合がある。そもそも入札が落ちないというケースもある。結局、2年経っても復旧できない河川とか、通行止めになったままの道路などが出てきてしまう。

 とりわけ過疎地域のような村では、隣接都市の建設業者が工事を請け負っており、村の人材で作業員を賄えなくなっている。もっと言うと、その都市の建設業者でさえ、高齢の人たちなのだ。地元の工業高校などから人材を得ている企業はまだ良い方だが、そういう縁のない企業となると、一方的に高齢化しており、廃業状態になりつつあるケースもある。

 土木事業は、自治体が地域の会社を選んで入札をかけて、工事を請け負ってもらう。基本的には地元の会社が地元の工事を遂行する制度(指名競争入札制度)になっている。この制度によって、全国各地には建設業者が満遍なく分布してきたという。(宮崎 2021)

 しかし、ここに来て地方建設業は深刻な高齢化と人材不足に陥りつつある。まだ彼らが作業員あるいは職人として働けているから良いが、二十年後、三十年後、再び大きな災害が起きたとき、いったい誰がその復旧に携わるのか。

    こういう難しい問題については、いろいろ考えたくなってくる。

 

【グローバリゼーションの終焉③:社会主義への変異】
―以下の内容は、某評論家の著作等を踏襲してまとめたものです―

 グローバル経済というのはそもそも過剰な資本主義経済です。だから、資本主義が後退するとグローバル化も後退する。
 ジョセフ・A・シュンペーターという有名な経済学者がいたらしく、その人が資本主義の終わり方を指摘していたといいます。私は、その人の本は読んでいないので、あくまで某評論家の解釈を紹介します。
 資本主義はもともと、金融によって長期的な投資を行い、技術革新(イノベーション)を実現し、社会の生産力を著しく高めることを目指す経済体制です。そのような技術革新の背後には、中小・中堅の自営業者たちによる旺盛な企業家精神がなければいけません。しかし、技術革新を実現した企業は、大企業組織へと成長することで、周囲の中小企業を駆逐してしまう。それによって、社会全体の企業家精神や投資意欲も沈滞してしまい、資本主義は後退する。資本主義は、それ自体が自己破壊的なメカニズムをもっているというのがシュンペーターの洞察でした。
 大企業の台頭によって、それを牽制する国家が経済に介入するようになる。シュンペーターは、時が経つにつれ資本主義が社会主義へと移行することを主張しました。政府は、格差是正完全雇用を目指し、公共投資を実施したり累進課税を導入したりして、経済への管理を強めていきます。そのような社会は、公的機関が経済を管理しているという意味では、事実上の社会主義であろうというわけです。

そのようなシステムは、なお資本主義と呼ばれるであろうことは疑いない。しかし、それは、人工装置によって生きながらえ、過去の成功を担保してきた機能のすべてが麻痺した、酸素吸入器付きの資本主義なのである。(シュンペーター)

 シュンペーターが上のような説を考えるようになったのは、アメリカがニューディール政策を打ち出してからだといいます。しかし、アメリカ政府はその後、第二次世界大戦への参加によって、さらなる市場経済への介入を強めていきました。
 ここで、戦争によって増大した財政支出は、戦争が終わればなくなるわけではなく、戦後もその水準は下がらなかったと言います。戦争需要がなくなっても、代わりに福祉政策などの民政支出が増大することで、国家の予算規模は戦時から維持されたままになる、これを「置換効果」というそうです。
 実際、第一次世界大戦前の<1913年>、対GDP比の中央政府支出は、イギリスが7.0%、ドイツが6.0%、アメリカは1.9%でした。それが、<1925年>にはイギリスが15.4%、ドイツは10.2%、アメリカは3.2%に増えたといいます。さらに、第二次世界大戦後の<1950年>にはイギリスが26.9%、ドイツは17.3%、アメリカは13.4%に増えたといいます。
 地政学的なショックが起きるたびに、資本主義国は社会主義化しているわけです。
 現代のグローバル化は、冷戦終結によって本格的に始まったといいます。地政学的な安定が、国際的な経済活動を支えるというのは「覇権安定理論」で述べた通りです。しかし、グローバル化という過剰な資本主義は、グローバル企業という世界的な大企業をつくり出し、また世界的な格差の拡大を生み出しました。
 そして、ここにきてアメリカ含む世界各国が直面しているのは、新型コロナウイルスパンデミックと、中国の台頭という地政学的リスクです。バイデン政権は、これらの問題に対処するため、リーマンショック時の経済政策を上回る「米国救済計画」や「米国雇用計画」という大型の財政支出を講じようとしているといいます。
 アメリカに限らず、各国は新型コロナウイルス対策のために大規模な政府支出をかけており、その対GDP比の規模は、<2021年>7月時点で、イギリスが16.2%、ドイツが13.6%、フランスが9.6%、日本が16.5%、アメリカが25.4%に及んでいるといいます。一方で、平時<2018年>における対GDP比の一般政府歳出は、イギリスが40.2%、ドイツが44.5%、フランスが56.0%、日本とアメリカが37.9%となっており、単純計算でこれらに新型コロナ対策費を上積みすると、どの国もGDPの6割前後に達することになります。そして、もし「置換効果」が働くとすれば、パンデミック終息後も政府支出はこの水準から下がらないということになります。
 コロナ禍は、資本主義国の社会主義化に拍車をかけたわけです。さらに言うと、中国などの地政学的ショックがこの変異をさらに加速化させるかもしれない。
 バイデン政権において注目されているのは、その人事において、グローバル化路線を継続したオバマ政権時のスタッフを再び起用したにも関わらず、グローバル化から方向転換して大型の財政政策を唱えるようになったことだといいます。アメリカ自身がもはやグローバル化から背を向けようとしているわけです。
 その中でも、44歳という異例の若さで大統領補佐官に登用されたというジェイク・サリバンは、グローバリゼーション及び自由貿易を批判して、次のように述べたといいます。

「政策担当者は、あらゆる貿易協定は良い貿易協定だとか、答えは常に貿易の拡大だといった従来の認識を超えなければならない。詳細が問題である。安全保障コミュニティは、TPPについて、その実際の中身を吟味もせずに、何の疑問も抱かずに支持していた。米国の貿易政策は、何年にもわたる間違いが多すぎて、プロ貿易協定の議論をもはや額面通りには受け入れられない。」

 

【田村明③:宅地開発要綱】

    横浜市企画調整局が設置されてから最初の年に取り組んだ大きな仕事は、高速道路の地下化と、もう一つは「宅地開発要綱」の作成だったとされている。
 田村が横浜市に入庁した1968年当時は、高度経済成長期と重なり、宅地が乱開発される時代の真っ只中だった。
 住宅政策に詳しい住田昌二氏によれば、日本は1970年代半ばまで、住宅の質より量を重視する戸数主義の政策をとっていたという。戦後の日本は、空襲による焼失や疎開による取壊しによって、420万戸(当時の全国都市住宅の約半数)という未曽有の住宅不足を抱えていたが、その上に、朝鮮戦争の勃発と高度経済成長によって、首都圏へ大量の人口が流れ込み、さらなる量的住宅難に陥ったのである。
 政府は、公共住宅の建設と民間住宅の指導の両面で、住宅戸数を増やすことに徹底したが、問題なのは住宅の質が等閑視されることで、首都圏に低質粗悪な民間住宅が量産されてしまったことだった。その典型的な例は、山手線の外側に形成された木賃アパートベルトであろう。

極端ないい方をすれば、いかに少ない公共投資で、いかに効率的に戸数消化をはかるかが政策目標となり、「早く」「多く」供給することが政策基準となった。(中略)
 建築基準法違反の民間低質住宅が大量に簇生した事態も、戸数稼ぎのためには、結局は黙認しなければ、政策のつじつまが合わなかった。この政策がもたらした主要矛盾は、住宅の質の低下、社会資本の弱体化、それにもとづく住環境の悪化であった。戸数主義の住宅政策が、地域問題としての住宅問題を激化させた。(住田『住宅供給計画論』)

 そういう中で田村は、横浜市の乱開発の問題に立ち会った。
 もっとも、当時は宅地造成等規制法によって、土砂崩れを引き起こしてしまうような崖地に住宅が開発されるリスクは回避されていた。また、宅地造成事業規制法によって、開発事業者や開発計画の適性をみる体制はとられていた。
 しかし、それ以外の問題、住宅に伴って建設されるべき社会基盤の整備不足については、依然として解消されていなかった。具体的には、病院や銀行、郵便局、公園、とりわけ学校といった公共施設の用地確保、そして、上下水道やごみ処理、バス交通などの公共サービスやライフラインの未整備という問題があった。要するに、民間の開発事業では住宅だけがひたすら造成されるだけで、その周辺の公共投資が追いつかなくなっていたわけだ。
 こうした中、兵庫県川西市では「宅地開発指導要綱」がつくり出され、開発業者に学校用地の無償提供を求めるといった対策がとられていた。その要綱は、法律でも条例でもないが、実効性をもっていたことから、横浜市もこれに倣って「宅地開発要綱」の検討をすすめていたという。
 しかし、横浜市政令指定都市であり、普通の市町村とは違って、政府とダイレクトな関係にある。そのため、法律に抵触しうるような要綱には批判的な意見が多く、作成の議論は難航したという。ここで、都道府県並みの権限を持っているはずの横浜市の方が法律に縛られやすく、一方で、川西市政令指定都市でもないのに、法に基づかない自由な行政を得ていたという点は興味深い。
 なお、要綱の内容を議会に通して、議決を経て条例にすることもできなかったらしい。当時の議員は、開発業者からの圧力を受けており、開発業者の不利益となるような要綱の制定には賛成しなかった。また、要綱は地主の不利益にもつながるため、地主層を代弁する議員にも賛成されなかったのだろう。
 要綱には、道路や河川、駅前広場などの建設費負担についても盛り込まれているが、特に重要な部分は、学校用地の取得に関するものだったという。

学校は遅らせるわけにはいかないが、用地を確保できない。そこでやむなく運動場にプレハブの校舎を建てて対応する状況だった。運動場一杯にプレハブ校舎が建ち並び、運動会はもとより、体育の時間には、近くの公園まで出かける学校もある始末だ。この小中学校に当てる土地を、坪一万円で市が譲り受けたいというのが、要綱の中心点だ。

 要綱作成の議論をすすめていた間、横浜市は、田園都市線を開発していた東急と公共用地の提供に関する交渉を行っていた。田村はじめ企画調整局は、その交渉結果をもとにして宅地開発要綱を制定したという。最終的には、市長と助役を含む首脳部会議で、押し切って決めてしまったらしい。制定にあたっては、要綱運用の窓口になる部局と内部でもめたり、制定してからは建設省からクレームが来たりしていた。
 要綱行政は、当初はさまざまな抵抗があったそうだが、横浜市等が先行事例として優れていたのか、その後、宅地開発に関する要綱をもつ市町村は全国に広がっていったという。
 田村が宅地開発をコントロールしようとした事例は、要綱以外にも、線引きや用途別容積制などがある。線引きの原案では、既成市街地と開発中の土地を除く、全ての土地(市域の55%)を市街地調整区域に入れようとしていた。結果的には25%に縮められたそうだが、多めに設定した市街化調整区域は、その後の公共用地の確保に役立ったという。また、用途別容積制を導入して、商業地域内の高容積化とマンションの増加を抑制していた。これによって日照問題に対応し、かつ市街地内で学校用地の取得が困難になる事態を防いでいたという。

始めに述べたとおり、土地利用問題は都市づくりの基本でありながら、もっとも困難の多い仕事である。私も多くのむずかしい仕事をしてきたが、精神的にもっとも多くの負担になったのは、この問題である。コントロールを強化すれば多くの関係者の恨みを買うだろう。だから行政としてはコントロールを緩めるのはもっとも容易なことで、直接利害関係をもつ多くの人びとに歓迎されるかもしれない。しかし、それでは、かつて土地利用や開発を押さえる手段がなにもなかった時代の混乱に帰ることで、全市民の利益は守れない。せっかくその混乱と失敗の中でようやく生まれてきた土地利用や開発コントロールのさまざまな手法を、全市民的な立場で進める必要があろう。

 ところで、最近の住宅政策だと、首都圏ではタワーマンションの建設がめざましい。何回かに及ぶ建築基準法の改正が積み重なって、2000年頃からタワマンの竣工が飛躍的に増大した。
 タワーマンションは、それ自体が巨大な住居収容施設であり、戸数だけが異常に増えるため、入居人口に相当するだけの公共施設をもたない。タワマンを購入する層は、新しく家族になったばかりの若い夫婦が多いというので、当然ながら小学校などの子供向け公共施設の整備が追いつかないことが想像される。
 タワマン建設に奔走した武蔵小杉の地区では、駅の混雑も有名のようだが、少し調べてみると、待機児童の増加やプレハブ校舎建設などが問題として取り沙汰されているらしい。また、このような問題は武蔵小杉に限らないという。現代の日本人は、田村から何も学んでいない。

 

ーーーー
参考文献:『都市ヨコハマをつくる』『都市計画プランナー田村明の闘い』『住宅供給計画論』 
https://hiyosi.net/2016/01/26/elementary_school/
https://www.businessinsider.jp/amp/post-33255
https://musashikosugi.blog.shinobi.jp/Entry/625/

田村明②

 都市伝説というのが昔から嫌いだった。犬も食わないようなデタラメな話をドヤ顔で聞かされるのが我慢できない。
 あり得そうであり得ない話をされるならまだ良いが、明らかにあり得ない話をされても反応のしようがない。
 特に最近の都市伝説はひどい。
 この間、テレビを見ていたら、「オレは宇宙人と交信できる」と豪語していた男と一緒に、山奥でUFOを待つという企画をやっていた。言うまでもなくUFOは来なかったが、その理由が「ロケの弁当の中身が豚肉だったからだ」と。「豚肉を食べたから宇宙人は来なかったんだ」と。とりあえず弁当を用意してくれたスタッフに謝れよ。
 デタラメを言って注目を集め、金を貰っている人間はどうもイライラする。

 文藝春秋は今度の1月号で100年目記念ということらしい。
 そこには、緊縮財政派の経済学者である小林慶一郎氏と積極財政派の評論家である中野剛志氏の対談がみられる。反対論者が同じテーブルに座って対談するのは珍しいことかと思います。
 だいたい雑誌の記事だと、両者の顔を立てようとして決着が曖昧なまま終わってしまうものですが、たいへん参考になるのかなと。

 

<グローバリゼーションの終焉②>
―以下の内容は、某評論家の著作等を踏襲してまとめたものです―

 今のグローバル化はそもそも歴史上で2度目の出来事だといいます。つまり、一度は終わっている。世界は技術の進歩とともに交流が広域化・活発化するというのは誤った歴史観です。
 カール・ポランニーの『大転換』という著作があります。そこには、1度目のグローバル化が、どのようにして始まり、どのようにして終わったのかが記されている。
 1度目のグローバル化は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのイギリス覇権の期間で、特に20世紀初頭は、現代(コロナ禍以前)と同じくらいに貿易、国際投資、移民が活発だったそうです。
 グローバル化とは端的に言えば、世界をつなげて一つの市場システムを創り上げようという運動です。「世界中を一つのマーケットにすれば、世界中のものが適切な価格で手に入る。好きな職業に就いて、好きな場所に住んで、好きな物が食べられる。そのためには、市場の中に身を投じ、たくさん働いて稼ぐことによって受益することができる。」こういうナイーブな商業主義に基づく世界観にグローバリズムは支えられています。
 こういう考え方の基底には、市場システムは万能であり、マーケットでは常に需要と供給が均衡して適切な価格で財・サービスが人びとに配分されるという市場原理主義の経済学があります。しかし、ポランニーは市場原理主義を批判し、市場の拡大によって失業問題や環境破壊、貧富の格差、コミュニティの崩壊が各国で深刻化していく状況を追っていました。自由市場では、現実の社会を統治できないというのがポランニーの洞察です。
 しかし、市場を拡大しても現実がうまく対応できない状況が明らかになると、市場原理主義の経済学者などは、むしろ十字軍的な信念に憑りつかれたように、市場を拡大するよう政治に介入していったとポランニーは言います。市場は社会の一部に過ぎないのに、市場が社会を支配しようとして、社会が崩壊していく過程がグローバル化だというわけです。
 ところが、その自由市場も世界恐慌(1929)が勃発したことによって、いよいよ秩序として立ち行かなくなると、それに応じて世界各国で政治的大転換が起こりました。それは、それまで自由市場に抵抗的だった人びとが、一気に政治勢力として躍進して発生した、まったく異なる社会主義的な政治体制でした。1930年代において、ドイツやイタリアではファシズムが起こり、イギリスなどはブロック経済化し、アメリカではニューディール政策が講じられたのは、この大転換によるものだとポランニーは主張したのです。
 そして、急激に体制が変更した各国、とりわけファシストの支配した国は、世界大戦を勃発させるに至り、1度目のグローバル化は終了するという流れになります。保護貿易自国第一主義、そしてファシズムは、世界大戦を招いてしまうという歴史の教訓が語られているそうですが、ポランニーに言わせれば、そのような政治体制の変化を招いた自由市場の拡大、つまりグローバル化こそが本当の歴史の教訓だったのでしょう。
 では、現代はどうか。
 2度目のグローバル化は、20世紀末からはじまり、国際投資・移民・貿易は急激に増えたと言います。そして、前回同様に貧富の格差といった社会問題を引き起こしましたが、自由市場の理念に憑りつかれた政治家、官僚、経済学者などのエリートは、それが正しいと信じて民営化・規制緩和自由貿易協定などの市場原理を社会に適用する政策を講じつづけました。そして、リーマンショックが起こって世界的な金融危機が発生し、自由市場の秩序が行き詰まると、イギリスはEUからの離脱を決定し、アメリカでは自国第一主義を掲げるトランプ氏が大統領に選ばれました。
 かつてポランニーが説いたシナリオにそっくりだなと思うわけです。もっとも、現代と前回とでは、状況はいろいろ異なる部分があるのでしょうが、大筋としては1度目のグローバル化と今回のグローバル化は同じような道を歩んでいるように見える。
 1度目と比べて2度目のグローバル化の大きな違いは、2度目の方はコロナ禍というパンデミックによって自由市場に一気に制限がかかったところでしょう。それがどういう結果になるかは別として、フェーズとしては、いよいよ世の中はヤバい時代に入ってきたなと思うわけです。
 以下、1度目のグローバル化と2度目のグローバル化のそれぞれのシナリオをまとめておきます。

<1度目のグローバル化
①世界的な資本・商品・人材の交流活発化(グローバル化
 ↓
②世界的なバブル崩壊金融危機世界恐慌
 ↓
③世界各国の政治体制の変化(ファシズムブロック経済
 ↓
④世界大戦

<2度目のグローバル化
①世界的な資本・商品・人材の交流活発化(グローバル化
 ↓
②世界的なバブル崩壊金融危機リーマンショック
 ↓
③世界各国の政治体制の変化(ブレグジット、トランプ現象)
 ↓
④コロナ禍 ← 今の世界ココですね
 ↓
⑤????

 ????に何が来るかは、私も分かりません。

 

<田村明②>
 田村がはじめに取り組んだ大きな問題は、首都高速道路の路線変更・地下化と言われている。
 <横浜都心部ルート>と呼ばれていたその区間は、伊勢佐木町の入口を高架でふさぎ、大通り公園の真上を通り、関内の景観を台無しにするものだった。この高速道路計画は、田村が横浜市に入庁する三週間ほど前に審議会において正式に決定されている。

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 これを覆すため、田村はあらゆる場所に出向いて調整を図った。まずは市役所内部を説得し、次に建設省へ出向いて、また神奈川県、首都高速道路公団にも回った。しかし、どこへ行っても他部局では実質的な議論はできず、事務屋とは儀礼的挨拶に留まってしまう。結局のところ、権限のある建設省都市計画課の専門官へ、田村が単独で当たった。
 本当かどうか分からないが、そこで専門官には「道路をいかに早く安く作るかが重要だ。だから同じ金なら100メートルでも長く、50メートルでも、10メートルでもいい、いや、たとえ1メートルでも長くしなければならない。美しくするとか、景観とかに使う金はないのだ」と言われたらしい。しまいには「田村は信用ならん。俺の部屋には来るな」と言われたとか。
 専門官とのやりとりでは埒が明かないまま、時間が経過し、膠着状態がとうとう地下鉄工事などの他部局にまで支障をきたす事態になろうとしていた。そこで田村は、国会議員の仲介で、当時の建設省事務次官と非公式で面会する機会を得る。本来であれば市長が赴くはずなのだろうが、田村が代理で直接交渉に行った。
 その日は、たまたま大雪で、電車は不通であったため、高速道路の一車線だけ除雪された道のりをのろのろ走っていったという。田村は次官に変更案を説明し、二応三応のやりとりをしたが、最終的には次官が諦めて、高速道路の路線は変更・一部の地下化が実質的に決定した。田村は行きと同じ高速道路の雪道を帰り、市役所で待っていた市長と助役にその結果を報告したという。

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 このような努力をしてまで、高速道路を路線変更・地下化したのは、先述の通り、それによって横浜市の中心だった伊勢佐木町や関内地区の景観が著しく毀損されてしまうことを防ぐことにあった。

 商業の中心は戦後、横浜駅付近に移ってきたが、なんといっても関内周辺は横浜発祥の地である。そこに横浜の歴史も個性も魅力もこめられている。(中略)この地区へ、巨大な構造物である高速道路を、どう入れるかによっては、町の様相は一変してしまい、問題は大きい。

 もっとも、たかが景観だという意見もある。なぜ大きな労力と費用を割いてまで景観に注力する必要があるのかという問いである。地域における景観の重要性を上手に説明している理論は、今のところ探索中である。しかしながら、地域ではなく国家に話を置き換えれば、解の糸口のようなものが見えてくる。
 国家は、社会を統治するために「権威」を必要とし、それを人びとに受け入れさせることで国民を動員する。そして、権威を可視化したものが「象徴」であり、象徴はそのシンボル性によって人びとが同じ共同体に帰属しているという想像力を掻き立てる。日本でいえば皇室などが象徴の典型であり、それ以外にも国旗や歴史上の人物なども象徴として作用する。
    地域では、住民の求心力を得るためにもそういった地域的な「象徴」が必要となる。しかし、国家とは違って法定された象徴があるわけでもなければ、地元の重要人物を歴史の授業で教わるわけでもない。そこで、豊かな自然風景、伝統的な建築物、にぎやかな商店街、こういった優れた景観資源というのは、地域の有力な「象徴」になり得る。景観は地域統合において極めて重要だということだ。実際、国家においても、富士山のある風景などは一つのナショナル・シンボルとして作用しているであろう。
 ところで、何を「権威」と考えるかは個人の主観に委ねられるものであり、その社会において共有される権威とは、人びとの主観が集まって出来たものでもある。例えば、国家において皇室が象徴とされるのは、憲法において「天皇が国民統合の象徴である」と定められているだけでなく、現に日本人の多くが日本文化としての皇室を認知していることを条件とする。
 それと同じように、仮に地域の「権威」として作用する景観をつくり出すのであれば、それは住民らの主観によって選び出されたものでなければならない。だとすると、地域の象徴となり得る景観とは、美的外観だけではなく、それなりの文化的蓄積や地元民からの愛着に恵まれている必要がある。要するに、そのような場所は簡単につくり出せるものではない、極めて貴重な空間だということだ。
 田村は、そうした地域の「象徴」としての景観の貴重さを理解し、高速道路によって中心商店街の景観が壊されてしまうことの危険性を感知していたのかもしれない。実際、伊勢佐木町商店街や関内商店街(現在は馬車道商店街)は、高速道路が交通の便を向上させるどころか、町の発展にマイナスになるということで、市役所にルート変更を陳情していたという。

 景観はあるまとまった地域の姿だが、それが市民の協働作品だとすると、コミュニティのつながりを保つ手段にもなるだろう。互いの協力でよい景観をつくろうとすれば、共通の考えや連帯の気持ちが必要だし、上からの統制としてではなく、自発的に地域をよくしたいという愛情をもつのが先決だ。

 権威(象徴)と人民の関係として重要なのは、それぞれが互いに影響し合う関係にあるという点である。
 地域の「象徴」として優れた景観は、住民に自分たちが同じ共同体に属しているという連帯感を高めて、自治体の事業に協力したり地域のために行動したりする動機となる。それによって、景観がさらにより良いものとなれば、その権威はさらに高まり、住民の連帯感もまた高まるという正のスパイラルが生まれる。
 逆に、一度でも地域の「象徴」が大きく毀損されてしまうと、地域のアイデンティティが失われて、住民がより良い景観をつくる意識もなくなってしまい、さらに景観が悪化して地域の象徴性も弱くなってしまうという負のスパイラルも生まれる。
 田村は、この負のスパイラルが発生してしまうことを強く恐れていたように思われる。

 もし、あのとき、高速道路の地下化ができなかったら、やはり自治体は下請機関的無力感におちいったろう。総合性などと夢みたいなことをいうなという、バラバラ主義が主流になったろう。人間性や景観などという価値はずっと後位におかれたろう。
 そして、あの巨大な構造物が、町をずたずたに引きさいてしまい、横浜の関内はどこにでもある、ありふれたごたごたした町になってしまったろう。その構造物にひき裂かれた馬車道も、伊勢佐木町も、今日のようなモール化というエネルギーは発揮できなかったはずである。
 最初の一つがどちらに動くかによって、都市づくりはまったく変わる。

 つまり、高速道路の地下化に成功したことによって、田村は横浜のまちづくりを正のスパイラルの軌道に乗せたとも言える。

 

ーー

参考文献:

『都市ヨコハマをつくる』『まちづくりと景観』『都市プランナー田村明の闘い 横浜“市民の政府”をめざして』『国力とは何か』

田村明①

 インフルエンサーと呼ばれる人たちがいる。SNSを駆使してそういうのを目指す人もいるのだろうが、若者はあまり「影響力を発揮しよう」などと考えるべきではないと思う。バズる動画をつくって、クラスで人気者になって、あわよくばテレビに出ようとか、そういうのは無害かもしれないが、社会一般に意見を発信するとか、真面目なことを始めるとシャレにはならない。
 若者というのは、例外なく考えが未熟なので、自分の考えを広めようとしても、間違った意見や嘘の情報を流してしまうことがある(まぁ、いい年こいてデタラメな言説を垂れ流すような大人は本当にみっともないのだが)。そうした場合、自分のSNS上のつながりが広ければ広いほど、黒歴史をつくってしまうハメになる。
 自分の考えが未熟なうちは表に出さない方が、実際のところは身のためなのだ。私のブログもかなり狭い空間でやるようにしており、一部の例外を除いて意見を押し広めるようなことはしない。
 最近読んだ本に、こういうことが書かれていた。

最近は、SNSだかブログだか知らないけれども、訓練も積んでないのに、不用意にものを書き出して、公表しちゃう人がたくさんいる。別にかまわないんですが、しかし、言葉は自意識を増長させるようなところがありますよね。言葉は自分に向ければ自意識を増長させ、人に向ければイデオロギーになる。だから本当に厄介だなと思います。

 このブログでもなるべく自分の意見は書かないようにしたい。やるべきことは、過去の優れた研究や著作を掘り起こして、それを右から左へ書き写す。書き写していくうちに、自分の考えがおのずと発達していくのを待つしかないんじゃないか。

 

【グローバリゼーションの終焉①】
―以下の内容は、某評論家の著作等を踏襲してまとめたものです―
    グローバリズムは終わります。もう終わったという見方のほうが正しいとさえ言えるかもしれない。
    これは、単にコロナ禍で世界中の移動がしにくくなった、とかいう一時的な現象を意味する話ではありません。コロナ禍が止んでも、依然として社会は脱グローバル化に向かっていくという話です。「これからの社会はグローバル化だ」とか、「世界に羽ばたいて活躍しよう」だとか、そう言える時代は終わりを遂げつつあるのです。
 グローバル社会は、コロナ禍の前から危うい状態でした。リーマンショックが起こり、イギリスはEUからの離脱を決定し、自国第一主義トランプ大統領が生まれて、米中貿易摩擦が起こり、移民問題が洋の東西を問わず深刻化していた。今後、本当にグローバル社会が終わったとすれば、コロナ禍はその契機ではなく、ダメ押しだったと見るべきでしょう。
 現代のグローバル社会が立ち行かなくなる理由を完璧に説明することは難しいと思いますが、いくつか考えるヒントみたいなものはあげられます。
 例えば、ロバート・ギルピンらの「覇権安定理論」というものがある。
 覇権安定理論とは、次のようなものです。グローバル社会というのは物資や資本、人材が国境を越えて自由に行き来することができるような社会だが、そういう社会は世界各国を統治できるような覇権国家が存在してはじめて成立する。しかし、グローバル化という世界的交流の過程で、他国も経済成長を遂げていき、覇権国の相対的地位は低下していく。そして、いずれ覇権国に挑戦する国が育ってしまう。覇権国が挑戦国に敗れれば、その国際秩序は崩壊し、したがってグローバル化も終わる。こういう理論です。
 かつてイギリスが覇権国だった時代では、アメリカが挑戦国として勝利し、アメリカの時代がスタートしましたが、当時はアメリカが圧倒的なパワーをもって勝利したから、すぐにアメリカは覇権国としての地位に上って新たなレジームをつくり出しました。
 ところが、現代はアメリカが覇権国として衰退しつつあるものの、それにとって代わる大国がいない、いわゆる「Gゼロ」の状態と言われています。これでは新体制が生まれないまま、世界各地域における覇権をめぐって、各国の対立が際立っていく事態になる。仮にアジアでは中国が新覇権国として勝利すれば、現在の英語圏のレジームは終了することとなるでしょう。いずれにしても、アメリカが治めていた自由経済圏は、終わりに近づきつつあるというわけです。
 グローバリズムが終わるということを示唆する話は、いくつかあります。歴史を紐解くと、いろいろ面白いものが見えてくる。

 

【田村明①】

 横浜の街は荒れていた。むりもない。戦災と進駐軍による市街地まるごとの占領。やっと返還されたのちも、戦争と接収の傷あとが残ったまま放っておかれた。そのうえ、緑深い郊外部分は、東京からのスプロールに荒らされている。人びとの気力は萎えていた。

 1963年、横浜市長飛鳥田一雄が当選した。以後、飛鳥田は革新首長の先駆者的な存在となる。
 飛鳥田は、社会党の公認を得た野党の首長だった。そのため、市長としては市会と対立する構図となり、議員たちと対抗していかなければならなかった。そうするにあたって、飛鳥田は二つの方法をとったという。
 一つは、飛鳥田の公約の目玉であったとされる一万人集会である。飛鳥田は、町内会の実力者などに働きかけて、市民の自主的な主催という形で一万人集会を実施していた。もっとも、一万人では規模が多すぎて発言できない人が多いということで、後には小規模の区民会議という形となって実施された。要するに、議員を介さずに直接市民と接点をもち支持を集めようとしていた。
 もう一つは、飛鳥田が市行政をコントロールしていくにあたって集められた、ブレーン集団だった。
    当時、国全体としては公害問題を抱えており、横浜市としては社会基盤の未整備に悩まされていた。これらの問題は、自治体が市民の生活の不満と向き合わずに、産業政策を優先する中央省庁の言いなりになっている構造が原因だとみなされていた。したがって、横浜市民は中央省庁から距離をおき、独立した意志決定のできる市政を望んでいたという。社会党員だった飛鳥田が市長に選ばれたのにも、そういう背景がある。このため、飛鳥田は市政中枢の役職には横浜市内部からではなく、外部の人材を積極的に登用していった。
 具体的には、市政全般の相談役として起用された東京都政調査会研究員の鳴海正泰。また、アメリカ軍に接収された土地の接収解除担当として選ばれた防衛施設庁の森道夫。そして、都市プランナーとして六大事業を担当することになったのが、田村明だった。
    田村は、六大事業の推進のため横浜市に企画調整局を設置するだけでなく、自らもその局長として非常につよい影響力を発揮したが、そのような権力を行使できたのも、飛鳥田にブレーンとして起用されていたという背景がある。
    横浜市の職員として田村が直面していた問題とは、一言でいえば「乱開発」だったと思われる。国の圧政的な高速道路計画、急激な人口流入に伴う宅地造成、公害をもたらす民間事業、高度経済成長期に特徴的なあらゆる開発圧力に対峙したのが田村だった。
 田村は大学時代、建築家の丹下健三から指導を受けていたそうだが、彼自身は「東京計画1960」のようなグランドデザインをつくるようなタイプではなかった。むしろ、そういう理想郷を描こうとするだけで、都市計画の実務と接点を持ちえないようなグループを「デザイン派」と称して、批判を加えていた。

 デザイン派の人びとが都市計画と思っていたことは、ここでいう計画(プランニング)ではなく、多くは実態の都市と離れた抽象的なデザイン・スタディであったことに気がつくのである。都市という怪物にデザインだけでたち向かっても現実の都市を動かすことにはならない。

 田村が横浜市でやっていたことは、自らの理想を実現することではなく、とにかく現実の問題に対処することだった。六大事業にしたって、そのねらいはプロジェクト方式によって自治体の主体性を喚起させ、縦割り行政を是正するところにあった。つくりたい都市をつくることが目的ではなかった。
 ただ田村は、横浜市に迫りくる開発圧力をコントロールして、横浜の歴史と環境を保全しようとした。それで結果的に、優れた都市プランナーとなった。
 田村が活躍した時代と現代では、都市問題をめぐる状況は大きく変わってしまっている。かつて田村が直面したような開発圧力は、今後の日本では容易には発生しないだろう。あるいは、田村のように市政の中枢に置かれて、その知恵を活かす機会などほとんどないであろう。しかし、それにもかかわらず、都市問題というものを考える上で、我々が田村から学ぶべきものは多いように思われる。

都市計画について⑤

 「コロナは飲んでも構わない」という某京大教授がいた(アレには驚いた)。それを支持する某大学教授がいて、さらにそれを支持する学生などがいるらしい。これは、どう理解したら良いんでしょうか。
 某大学教授は、パンデミック下の東京五輪について、感染拡大に差し掛かっていた開催直前にも関わらず、その強行を擁護する意見をFBで流していた。その後、新規感染者数は激増、東京は医療崩壊し、日本は8月中に250人の医療機関外死者を出した(https://mainichi.jp/articles/20210913/k00/00m/040/176000c)。五輪賛同者は、このことについて何もコメントしないのだろうか。私には不思議としか思えないわけですよ。
 昨年春からの一連の経緯を、ブログで取り上げてみようとも思うけど、あまり気が進まない。とりあえず人間というのは仲間内で盛り上がっているうちに、おかしくなっていくものなんだと、改めて思い知った。また、本当の知識人と「知識人ごっこ」をしていただけの人たちの違いも分かった。

 私は研究室にいた頃、あるゼミで現代貨幣理論(MMT)について同期に紹介したことがある。当時、某京大教授もMMT推奨論者の一人だったが、彼については少し違和感を抱いていた。そもそもMMTを日本に輸入したのは別の人物である。その頃の違和感が、コロナ禍ではっきりした。
 某京大教授の周辺はカルト化してしまったが、MMTの議論はたいへん重要だと思われるので、私は若い世代はこれを引き継いでいくのが良いように思う。
 誰だって物事は知っておくことに越したことはないでしょうし。

https://diamond.jp/articles/-/230685
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【本文】

 今回調べている石田頼房氏という人物はなかなかスゴイ方だなと。農村計画の方面にも明るいし、また森鴎外をテーマにして一冊書いてもいる。
 ある著述家の本を読んで、それが面白かったので他の作品を読んでいくと、だいたい二つのパターンに分かれていく。一つは、いくつか読んでいくうちに「なんか言ってることが変わらないなぁ」「だんだんイデオロギーにすり寄ってきているなぁ」というふうに面白みを失っていく方向。もう一つは逆で、「おお、こっちの方面まで研究しているのか」とか「この話と、あの話をつなげてくるか」というふうに面白みが増していく方向がある。もちろん後者の方が優れた著述家です。石田氏は後者であり、たいへん優れた学者だと思います。

 戦後の日本は、大学・高専の地方疎開、大都市圏の建築抑制、地方工業化、農村振興などが主張されていた。その熱心な主張者たちは、石川栄耀や北村徳太郎などのアウタルキー的国土計画(1)の論客だった。そういうわけで、戦災復興計画の事業は、東京ではなく、地方において優先的に実施されている。
 ところが、1949年のドッジ・ラインにより、戦災復興計画は見直し、戦災復興の遅れていた東京では大幅な事業縮小が余儀なくされた。東京以外の都市の事業化率が61.8%だったのに対して、東京での施行率は当初計画の6.8%のみだったという。そこに朝鮮戦争が勃発、特需景気に湧いた東京へ大量の人口が流入し、いわゆる木賃アパートベルトが形成された。地方分散の方針が、裏目に出てしまったということなのだろうか。
 その一方で、戦争によってなし崩しになってしまったという東京緑地計画(1939)は、第1次首都圏整備計画(1958)として復活する。大ロンドン計画のように、きちんとしたグリーンベルトの設けられた東京計画がたち上がった。これが実現していたら、東京は今のように無尽蔵に大きくはならなかったのだろう。

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 アウタルキー的国土計画はドイツ流の分散論だとすれば、グリーンベルト計画はイギリス流の分散論にもとづくものであり、ともに分散論だったが、これらとは別に正反対の考え方が戦後から現れていた。「これから東京は巨大都市化していくのであって、これは時代の不可避の流れだ。むしろ巨大化こそが東京の将来あるべき姿だ」というような、巨大都市肯定論・大都市礼賛思想である。要するに集中論を唱える人たちが出てきた。西山卯三は「大都市論」を唱えていたというし、角本良平も『通勤革命』で似たようなことを言っていた。
 集中論者の論調には次のような特徴がある。ひとつは、都市の巨大化は不可避の流れだが、これは経済成長するにあたって企業活動の効率化が行われるため、つまり経済合理的な人々の判断にもとづくという「規模の経済」「密度の経済」を論拠にしている点。それから、巨大都市化には交通渋滞、住宅不足などの社会問題がともなうが、これらは交通システムや団地などの都市インフラの整備水準が低いから起こるのであって、地下鉄や高規格道路、ベッドタウンなどを建設して都市のスペックを上げれば解決するだろうという、大都市改造を指向する点。
 戦後の都市計画は、時代が経るにつれて、この考え方が優勢になっていったように感じる。今でもこの考え方が主流なのではないか。ニューヨークを改革したというジャネット・サディク=カーン氏にも同じような思想が読み取れます。彼女の場合は、大都市化からさらに高密化を指向しているところが興味深い。

 もし地球を守りたいなら、ニューヨークに引っ越してくるべきだと私はよく話す。ニューヨークでなくとも、大都市であればどこでも結構。(中略)何百万もの人々の住まいを、数百もの農村や郊外に広げるのではなく、高層建築に集中させることで生まれる都市的なエネルギーこそ、実際に多くの人々がニューヨークのような大都市に文化的、専門的、政治的側面から惹きつけられる理由である。(中略)したがって、効率的に国全体の成長を都市部に集中させることは、今世紀、各国が採用すべき最重要戦略のひとつなのだ。(2) 

 第1次首都圏整備計画は、当初はグリーンベルトを設ける予定だったが、1965年の首都圏整備法改正の時点でなくなってしまう。グリーンベルトはなぜ失敗してしまったのか。
 石田によれば、1960年頃から過大都市抑制=分散論か、それとも巨大都市肯定=集中論かの議論が活発になっていたという。それ以前までは、石川栄耀らの分散論が採用されていたというのだから、この頃から集中論が台頭してきたということなのかもしれない。
 1960年頃は、東京という都市のターニングポイントだったように思います。池田勇人所得倍増計画を掲げ、丹下健三が「東京計画1960」を発表し、東京オリンピック1964の開催が決定したのもこの時期だった。東京の巨大都市肯定論は、高度経済成長と手を取り合って発展していったのだろう。
 そういう思想上の転換もさることながら、第1次首都圏整備計画のグリーンベルトが頓挫してしまったのは、具体的にそれに反対する人たちがいたことも石田は指摘している。
 グリーンベルトに該当する地元住民および地元市町村が、グリーンベルトに指定されたら地域開発の機会がなくなってしまうということで、反対運動を行っていた。当時の農民は開発指向をもっていたらしい。場合によっては、各農家が相談して、グリーンベルト地帯に宅地分譲地をばらまくという実力行使も行われていたという。
 それに加えて、当時の日本住宅公団が、グリーンベルトに該当する地域において用地取得・開発を行い、いくつもの大穴をあけてしまっていた。住宅公団などの専門的な事業主体は、地方計画などに制約されず、企業的性格に基づいて動いてしまう。このことについて、石田は指摘している。

問題であったのはこれらの事業主体の特色である「企業性」です。それが、国、地方自治体などの公共性によって充分コントロールされていればまだしも、前にも述べたように基本法不在という中で、また地方自治体に充分な都市計画的独自性が与えられていなくて、またそのような意識も育っていないという状況の下では、これらの事業主体の企業的性格に基づく事業の論理で都市開発が進められ、計画の論理がゆがめられる場合が少なくありませんでした。

 1962年の第1次首都圏整備計画の一部改訂で「グリーンベルト」は事実上放棄され、1965年の首都圏整備法改正で近郊地帯(グリーンベルト)の文言は削除、1968年に策定された第2次首都圏基本計画では、東京都心部を業務管理中枢機能に純化する方針が固められた。
 結局、第1次首都圏整備計画が失敗になってしまった原因には、それが立案されたタイミングの遅さにあると石田は言う。

少なくとも石川栄耀が「戦災復興都市計画」論の中で展開していたように、1940年代後半、戦災復興計画と同時に定められているべきだっただろう。そうすれば、もう少しその理念を発揮する機会もあったかもしれない。しかし実際は、日本が経済成長に向かい、東京でスプロールが起こりはじめた後の1956年に、ようやく根拠法が制定されたというように、遅れてきた計画となってしまった。(中略)「第1次首都圏整備計画」の失敗は、結局、現在の東京一極集中問題の原因となっているわけで、あまりにも教科書的に見事なこの計画のたどった運命と結末には、今から考えても暗然たる想いがする。

 イギリスでどうしてグリーンベルトが上手くいったのか、ドイツではどうして分散的な国土計画が成立したのか、あるいは本当に上手くいっているのかどうかも含めて、今後の研究課題となりそうだ。

 

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参考文献:
・『日本近代都市計画の百年』
・『未完の東京計画』
(1) 戦争を念頭に置いた国土計画。首都が打撃を受けても、国家が戦争継続能力を維持できるように、おのおのの地方を工業生産・食糧生産の拠点としてワンセットで機能する自給自足圏として整備し、それらの地方を高速道路などによって結び合わせる。ナチス・ドイツによって発達したらしい。
(2)『ストリートファイト