LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

LRTについて

 以前から思っていたことなのだが、LRTとは結局のところ何なのだろうか。
 大学時代に初めてLRTの写真を見たとき、「バージョンアップしただけの『路面電車』ではないか」と感じた。その後、富山市LRTに実際に乗ってみたり、LRTについて書かれている本をいくつか読んでみたりしたけれど、いまだに路面電車がバージョンアップしたに過ぎないと思っている。
 路面電車に比べて、低床でバリアフリーであるとか、他の交通インフラと連携しているとか、いろいろ言われているが、結局どこからがLRTでどこまではLRTではないのか。線引きがよく分からない。
 日本のLRTの事例は、富山市宇都宮市(建設中)の二つといわれているが、路面電車をバージョンアップした事例なら他にもある。けれども、熊本市のように低床車輌を導入しただけではLRTとは呼ばずLRVというらしい。では、LRTとLRVの境はどこにあるのだろう・・・。
 一つの文献によれば、「LRTがどのような都市交通システムを指しているのか、その定義は国や文献によって異なっており、明確ではない。(中略)もはや呼び方によってLRT路面電車の機能の区別をつける必要性は乏しくなりつつある」という。
 LRTが何なのかは、よく分からない。

 

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参考:『路面電車新時代 LRTへの軌跡』服部重敬

交通政策について②

【要点】
 都市計画における三つの考え方。自動車交通への批判。角本の構想の具体的な内容。

 

【本文】
 角本によれば、都市計画には3パターンの考え方があるという。
 一つめは、職場と住宅をセットで分散させるという田園都市論。二つめは、住宅のみを分散させるという田園近郊論。三つめは、分散をはからずに高層マンション等の建設によって職場と住宅の高密を可能にするという高層住宅化論。
 このうち、角本は明確に二つめの考え方をとっていた。一つめの考え方については、経済活動の都心集中はやむを得ないという立場からそれを却下している。(1)また、三つめの高層住宅化については、悪臭や騒音が解決されていることを前提とするが当時の東京にはまだ工場等が残っていたこと、そして、そもそも高層アパートのような限定された空間は子供の発育障害や大人のストレスを誘発するので住環境として適さないことを理由に却下している。
 東京の郊外に大規模な住宅地を造成するわけだが、角本はその輸送手段として自動車交通を用いることを拒んでいた。
 当時は高速道路が建設されていたので、新幹線ではなく高速道路を推奨する考えがあってもおかしくない。ところが、角本は大都市と郊外をむすぶ通勤手段として高速道路を計画してしまうと、都市内の渋滞は不可避になると予測している。それは、東京市街地内における街路の交通容量は限られているため、そこで必ずボトルネックが生まれてしまうからだという。たとえ、どれだけ交通容量の大きい高速道路をつくったところで、高速道路を出た先にある街路の方が交通量の増加に耐えられなければ、結局のところ渋滞を起こしてしまう。あるいは、たとえ大都市の中心に広大な駐車場をつくったとしても、結局はその出入り口付近の街路で捌けなければ渋滞を起こしてしまう。
 要するに、ルート上のどこか一ヵ所にでもボトルネックがあればそこで渋滞してしまうという自動車交通の性質を角本は指摘しており、したがって大都市ではたらく人の通勤手段として自動車は適さないと考えていた。

以上見てきたことから結論付けられるように、どんなに自動車が普及しても、大都市都心部向け通勤だけは乗用車の分野にはならないのである。(2)

 代わりに角本は、新幹線を交通手段とする郊外整備を構想した。その内容は、およそ次の通りになる。
 まず、東京都千代田区あたりから50kmほど離れた地域の土地を「公共用地として指定した時点の価格」(3)で購入して、そこを宅地造成する。都心から50km地点というのは、当時における人口増加地域と人口減少地域のちょうど境界となる地点だったことに由来している。造成する住宅地のキャパシティは約30万人であり、英国のニュータウンが数万人、千里ニュータウンの目標が15万人というのに比べれば、大規模なものだった。30万人というのは、中心駅から歩いて1時間ほどの距離3.3kmを半径として、その圏内でゆとりある住宅地を整備した場合、だいたいそれぐらいの人口規模になるという試算らしい。また住宅地内での移動にはバスなどの公共交通をつかうことも考慮されている。

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 さらに角本は、都心から50km地点にだけでなく70km地点や100km地点(水戸、宇都宮、前橋)にまで、以上のような郊外整備を延伸することを考えていた。新幹線の速度であれば、100km圏内でも1時間程度で移動可能となる。つまり、新幹線のその速さを活かせば、これまで東京圏として手の届かなかった地域にまで大規模なニュータウンがつくれるだろうということだ。
 このような提案には弱点もあるかもしれない。例えば、総人口30万人なら通勤者はおよそ数万人になるだろうが、その大人数を一つの駅で捌けるかどうかは疑問に思われる。そういった批判も浮かんでくるが、ひとまずここで角本の考えをまとめておくことにしたい。

住宅と職場を分離し、それぞれの設計や環境を最適のものとし、両者を最小時間の交通手段で結ぶことによって、理想的な都市圏が成立する。(4)

 角本の提唱した「通勤革命」の趣旨は以上になる。

 

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(1)以前の投稿:https://kawakami-takeru.hatenablog.com/entry/2021/05/01/215327
(2)『通勤革命』p60
(3)当時の政府は、収用する土地を決済時の価格で土地所有者から買わなければいけなかった。公共用地として指定した後に決済するので、高騰した土地を購入するから費用が嵩んでしまう。角本はそれ以前の低価格で用地を買うべきだという土地制度に関する言及もしている。
(4)『通勤革命』p183

地方都市の役割について

 地方都市とは人口のダムみたいなものだと思う。(1)
 現代人は、放っておけば豊かな暮らしを求めて、農山漁村から地方都市へ、地方都市から中核都市へ、中核都市から首都へと流れ込んでいく。居住移転の自由が許されている以上は仕方がない。
 問題は、そのなり行きに任せていると、首都に人口が溢れかえってしまうことにある。渋滞しかり、コロナしかり、安全保障しかり、首都人口の過剰は害悪しかない。今の東京は洪水を起こしている。
 また中央に集まりすぎた民衆は内政的にも不穏分子となる。トクヴィルフランス革命の有力な原因としてパリ一極集中をあげていた。(2)
 こういったことを防ぐには、田舎から都会へと移り住んでいく人流をどこかの地点でせき止めておかなければならない。地方都市にはその受け皿としての役割がある。だから、なるべく衰退させない方がいい。
 コロナを契機に、そういう国土計画の見直しがあれば良いと思う。

 

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(1)地方都市とは、概ね県庁所在地の下位層にある市を想定している。
(2)『旧体制と大革命』(1998)

交通政策について①

【要点】

 新幹線の交通政策。「通勤革命」を提唱した角本良平。第一次首都圏基本計画への批判。新都市建設への批判。郊外整備という角本の方針。

 

【本文】

 前回の更新からけっこう時間がたってしまった。本当は月イチぐらいで出したいのだけれど、仕事が忙しくなってくると、なかなか研究に時間が割けない。もっとも、長い月日のかかるタイプの研究なので、時間がかかる分にはわるいわけではない。

 

 角本良平という元国鉄の職員がいた。彼は、新幹線という新しい交通機関の出現にともなって、新しい交通政策を唱えようとした人である。
 1966年に『通勤革命』という本を出版しており、そこには当時の東京都における過密問題について、彼自身の対応策が記されている。東京オリンピックを終えた頃の東京都心というのは、通勤混雑、住宅不足、地価高騰、こういった人口集中による問題に悩まされていた。東京の人口集中は、今から50年以上も前から問題視されていたのだ。
 1960年代というと、東京オリンピックに合わせて高速道路や新幹線といった大規模かつ高規格な交通機関が建設されていく時代でもある。角本はその中で東京の過密問題に対処するために、新幹線を用いることを提案しており、それまでの在来計画を却下している。それが良いかわるいかは別として、交通政策について考えるために彼の議論を追ってみたい。
 当時の在来計画は、「第一次首都圏基本計画」のような都心への人口流入抑制論が主流だったという。第一次首都圏基本計画というのは、東京の既成市街地の周りに近郊地帯(グリーン・ベルト)を設置して首都圏の拡大を抑制し、さらにその外縁部に衛星都市を設けて移住してくる人口をそこへ吸収させるという趣旨のものだった。
 角本はこれを「大ロンドン計画の引き写し」に過ぎず、東京の事情をまったく無視したものであったと批判する。角本によれば、大都市には三つの発展段階(成長、停滞、分散)があり、ロンドンのような最終段階にある都市であれば抑制政策は効果的かもしれないが、東京のような成長過程にあった都市には事態悪化を招いたという。
 まず、戦後になってなお人口が増加する東京都心において、流入抑制を無理に行おうとしために、開発抑制をしているはずの市街地外縁へと違法にも宅地が造成されていった。その結果、東京はグリーン・ベルトの形成に失敗してしまったという。(1)また一方では、流入抑制に重点をおいたために、既成市街地における鉄道建設などの投資を怠っていたことから、通勤混雑などの過密問題を引き起こしてしまった。人口流入抑制論が、当時の東京を混乱させてしまったと言いたいのだろう。
 さらに角本は、衛星都市や副都心、あるいは首都移転といった新たに都市をつくりだすという考え方にも反対の立場をとっていた。東京に移住してくる人々は主にオフィス・ワーカーであり、全国規模の管理機能を担う行政機関や民間企業の従事者であった。すぐに移転できるような工場等の労働者ではなかった。首都への集中はそういった管理組織の経済合理的な判断にもとづくものであり、首都でない別の場所に都市をつくりだしても、そこに人口と経済活動を誘導させることができるわけではないという。角本は東京の巨大都市化を容認するという点で、丹下健三の『東京計画・一九六〇』に好感を抱いていた。
 したがって、あくまで人口と経済活動の都心集中はやむを得ず、都心で働く層のために郊外地域を整備すべき、というのが角本の方針であった。ちょうど角本の見通しによれば、1960年代後半から東京の発展段階は停滞から分散期へと差しかかっていた。(2)だから、充実した郊外地域の整備が、彼にとっては喫緊の課題だったようだ。
 では、その郊外地域をどのようにしてつくりだすというのか。新幹線が話の中に出てくるのは、もう少し先になる。

 

(1)石田頼房『未完の東京計画』によれば、グリーン・ベルト失敗の主因は、グリーン・ベルトに指定されるはずだった市町村および住民が、開発抑制に反対して自ら宅地分譲などの開発行為をおこなったことだという。

(2)実際、東京23区の人口は1960年代後半から停滞しはじめ、1970年頃から減少に転じている。(なお、2000年頃から再増加し始めている。)

住宅政策について③

【要点】
 住宅政策における新自由主義の影響、その結果。東京におけるタワーマンション建設の要因。

 

【本文】
 1990年代から、日本は新自由主義イデオロギーにもとづく経済政策へと舵を切った。新自由主義の要点は、理想的な自由市場を実現すべく、規制緩和と民営化を徹底させるところにある。住宅政策の分野もその影響を免れず、持家の建設は公共部門から民間部門へ移されていった。住宅業界も自由化していったのである。
 ここ20年における住宅分野に顕著なことは、東京圏において高層マンション群が発生したことであろう。二十階建て以上のタワーマンションの建設は、2000年代から急激に増加した。

 率直に考えると、その原因は住宅市場の自由化にあるように思われるかもしれない。けれども、タワーマンションの林立と住宅市場の自由化は、短絡的な因果関係で結ばれるものではないという。
 日本の住宅業界が、新自由主義の改革によって主に変わった点は三つほどある。まず、民間企業による住宅ローン市場への参入規制が緩和されたという点。次に、それまでの住宅政策の三本柱といわれていた、住宅金融公庫日本住宅公団公営住宅(地方自治体)の活動規模が大きく縮小したという点。そして、地方分権により地方自治体の住宅政策の裁量が増やされた点。要してしまうと、政府から民間へ、また中央から地方へと住宅供給の担い手が移されていった。
 もともと1970年代からの住宅政策は、住宅金融公庫による住宅ローンの供給を中心とするもので、持家社会が形成される主因でもあった。けれども、この方法に傾倒し過ぎていたことから、ローン完済のおぼつかないような低所得層の世帯にも、ローンを提供できるよう貸出し条件が緩和されてしまっていた。このようなリスクの高い公庫融資は、日本の不動産バブルの一要因になったと同時に、ローン返済の延滞や破綻の事例を多発させてしまったという。
 そして1990年代からの自由化によってもたらされたのは、この住宅ローンをめぐる所得格差を煽るものであった。住宅ローン市場に新規参入した民間企業は、住宅金融公庫の供給する固定金利のローンよりも、概して金利の低い変動金利のローンを提供した。これによって、所得の高い階層は、公庫ローンから民間ローンへと借換えを行い、生活の余裕を増やすことができた。しかし、その一方で、低所得者はその恩恵を受けることができず、高所得者との貧富の差はさらに開いてしまう結果となった。
 さらに、1990年代より公営住宅の建設量はさらに削減され、収入に関する居住条件もより厳しくなった。その結果、公営住宅に入居することのできない低所得者は増加し、居住の自由は失われていった。要するに、住宅供給の自由化は所得格差を悪化させたのである。
 その一方、地方分権地方自治体の自律性を高めたと言われていた。しかし実際のところ、地方交付税交付金は削減され、残りの予算の使い道についても人口と地方税を増やすものへと選択と集中を強いられていった。そのため、むしろ自治体の施策の多様性は失われてしまったらしい。この意味で、地方分権は逆に中央集権を強める政策だったとされる。
 さらに地方分権改革によって、人口が増加する都市地域における公営住宅の新規建設は優先され、人口が減少する地域における公営住宅の維持修繕は後回しにされていった。その影響は、地域間格差の拡大を招く一因になったという。
 このように、1990年代からの住宅政策の転換は、概して国内の所得格差や地域間格差を開いてしまう要因となった。
 では、東京圏におけるタワーマンションの林立はどうかというと、それは自由化等による影響ではなく、平山によれば、もっぱら国策として推し進められてきたものだという。2001年の小泉内閣は都市再生本部を設け、翌年には都市再生特別措置法が施行された。東京を再開発させるにあたって、あらゆる措置が講じられる準備がなされたというのである。

民間ディベロッパーのプロジェクトは、市場経済の自由な運動ではなく、都市再生を推進する国策から産出された。都市計画・建築規制の大胆な緩和、とくに容積率上限の大幅な引き上げ、国公有地の払い下げ、道路基盤などの公共施設の整備、住宅購入支援、金融緩和による不動産投資刺激などの多岐にわたる施策手段が大規模開発を可能にした。都市再生は、新自由主義の影響下で、民間資本の大がかりな導入をともない、より自由な市場経済にもとづくとされていたが、しかし、ディベロッパーに対する国家の寛大な援助と保護を抜きにして成り立たなかった。(1)

 つまり、東京の高層マンション建設は政府が牽引したのである。このことは、1990年代から喧伝されたグローバル化の影響から、東京を「世界都市」にするという構想によって実施された。グローバル化は、民間企業を国家のしがらみから解放し、国際的に統一された市場で自由に競争しようという世界観に寄ってたっている。けれども、その世界観から生まれるはずだった東京の姿は、つよい国家の介入があってつくり出されたものであったという事実は、なんとも皮肉な話である。


【参考文献】
(1) 平山洋介『マイホームの彼方に 住宅政策の戦後史をどう読むか』(2020)
  その他、基本的には平山の同著を参考にしている。

 

住宅政策について②

【要点】
 総花的な高度経済成長期と、1970’s半ばからの持家転換。民間賃貸の居住空間の低劣さの理由。

 

【本文】
 戦後の日本政府は、いかにして国民の住まいを持家へと誘導していったか。
 平山によれば、1970時代半ばから政府が明確に借家と差をつけて、持家供給を推進していったという。
 1960年代の日本は、持家と借家のどちらかを優遇するという方針をまだとっておらず、総花的な住宅政策だった(1)。むしろその頃は、東京、大阪、愛知などの大都市圏に人口が急激に集中していったことにより、借家社会に傾いていた。実際に、1958年の持家率は約70%だったが、1973年には約60%と持家率は低下している。1960年代は、多くの若者たちが大都市圏へ出稼ぎにきて民間借家で暮らしていた。
 ところが、1970年代の石油危機による高度経済成長の終わりをきっかけにして、日本政府は住宅政策を景気の調整策として用いるようになったという。持家の供給は、公営住宅などの借家よりも一つの事業にかかる時間と労力が少ないので、その時の景気変動に応じて柔軟に対応できる。さらにいうと、持家なら、政府は住宅それ自体の供給ではなく、住宅ローンを供給して建設は民間に任せるという方法に甘んじることができた。要するに、借家よりも持家の方が経済調整策として都合がよかった。
 実際に、地方の公営住宅や住宅公団のように、政府が直接供給するタイプの住宅は、1970年代半ばまで建設量が上昇しつづけるが、そこからは大幅に減少に転じている。一方で、公費によって住宅ローンを供給する住宅金融公庫は、1970年代半ば以降もその活動量を増やしつづけていった。前者はおもに借家や分譲住宅を供給しており、後者はおもに持家を供給する主体だったので、ここに持家と借家の差を開く政策がとられていたことがわかる。
 他方では、民間賃貸にたいする政府の支援策はほとんど無かった。むしろ、当時の借家法では、借家人の住生活が保護されており、家主は法的に不利な立場にあったので、賃貸住宅は、あまり利益の見込める事業にはならなかった。そうすると、民間企業によって良好な借家が建設される環境ができなかったため、おおむね木賃アパートなど日本の民間借家の居住空間は低劣なものとなった。したがって、多くの国民、とりわけ都市へ流入した若者たちは、この低劣な居住空間から脱するため、持家を指向していったのだという。
 平山の議論は、家族主義の観点などほかにもあるが、ここでは重要だと思われた部分だけ紹介している。

 

【付け加えて】
 欧州に比べて、日本の借家率が低いということを示すには、公営住宅の活動量または政府の支援が欧州のものよりも少なかったということを明らかにしなければならない。ヨーロッパの住宅政策事情もあとで調査を進めておきたい。

 

(1)住田昌二『住宅供給計画論』参考

住宅政策について①

【要点】
 平山洋介『住宅政策のどこが問題か』について。経済成長と持家社会の関係における平山の洞察。
(各国の類型)

 

【本文】
 住宅政策の分野で良い本を読んだので紹介したいと思う。
 平山洋介氏の『住宅政策のどこが問題か <持家社会>の次を展望する』である。戦後から現在にいたるまでの日本の住宅政策の内容が描かれている。読みにくい類の本だけれども、真面目に勉強したいならこういう本を読むべきだと思う。
 前半は以下の通り。

 戦前日本は借家社会であり、1940年ごろの持家率は20%程度だった。それが、戦後の1950年ごろとなると60%程度にまで一気に跳ね上がった。戦後政府は地代家賃を統制したことで、借家社会が壊れてしまったために、多く国民が自力で家を建設していったという(この頃は相当社会が混乱したことが想像される)。
 だから、戦後日本の住宅情勢というのは、人々が自力で建設した住処から、政府・企業の供給する量産型の持家に転換していくプロセスだったともいえる。
 その過程は、経済成長と密接不可分だった。所得が増えれば立派な一戸建てが購入できるし、増加する住宅建設は市場にさらなる需要をもたらす。経済成長が持家社会を後押しし、持家社会がまた経済成長を促進していったのだろう。
 けれども、平山によれば、経済成長と持家社会を短絡的に結びつけるのは安易な発想らしい。たしかに、国民一人ひとりが立派なマイホームを有するには、経済が成長して所得水準が上がっていなければならない。

 しかしながら、所得の増えた国民が一斉にマイホームを建てるとは限らない。経済が成長しても借家社会に甘んじる国だってあるはずだろう。例えば、戦後ドイツは経済成長していたが、その持家率は40%程度で推移していた。持家社会の必要条件は経済成長であるというのは正しいが、その逆は必ずしも正しくないということだ。
 だから、日本が経済成長しながら持家社会となっていったのは、そこには国民にマイホームを持たせるべく誘導するような制度設計があったはずである。それが平山のいう戦後日本の住宅政策であった。
 日本が持家社会を形成するにあたって、具体的にどのような住宅政策を施していたのか明らかにしていこうと思う。

 

【付け加えて】
 持家社会の指向があった国というのは、日本、イギリス、アメリカおよびオーストラリアといったアングロサクソン諸国(+日本)であり、平山によればデュアリズム諸国と呼ばれている。他方で、経済成長しても持家率はそれほど高くないまま推移した国は、ドイツ、フランス、スイスおよびオーストリアといった大陸系ヨーロッパの国々であり、ユニタリズム諸国と呼ばれているらしい。