LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

商店街について③

【要点】
 商店街が衰退してしまった率直な理由。不況について。小売店舗の規模格差の拡大。不況によるコンパクトシティでは商店街は生成されない。このまま不況が続いた場合の小売業と町並みの様相。

 

【本文】
 率直なところをいうと、商店街が衰退した重大な原因には、不況があげられると思う。誰が市場競争に勝とうが負けようが、不況というのは市場そのものが縮小していく現象である。
 不況というのは、要約すると、消費が減ることで生産が減り、生産が減ることで所得が減り、所得が減ることで再び消費が減るという負の連鎖が起こることである。逆に、好況というのは、消費・生産・所得がお互いに影響し合って増幅していく正の連鎖ともいえる。
 買い手が減れば、売り手も減る。だから消費市場とともに商店街も縮小するというのであるが、商店街がとりわけ不況のあおりを受ける理由には、それが零細小売店の集まりだからということもある。大規模小売店と零細小売店では、後者の方が不況にたいして脆弱であろう。
 一般的に、大規模小売店の方が企業として体力があるため、不況下でも人員整理など業務の効率化に努めることで、生き残りを図ることが出来る。さらに、中小小売店の方が資金繰りに行き詰まって閉業してしまった場合、それらの店舗が把持していた消費者を、大規模店は新たな顧客として獲得することができる。したがって、不況では、小売企業の規模格差がどんどん開いていってしまう。
 不況において、零細小売店よりも大規模小売店の方が有利になる要因は、他にもあげられるだろう。この小売企業の格差拡大という傾向が、市街地内においてもたらす影響とはどのようなものか。

 昨今の不況下では、市街地の再開発とともに人々の市街地への集住化が起きている。平均所得の低下は、マイホームやマイカーをもつ世帯の割合を減らし、マンションや公共交通を利用する世帯の割合を増やすからだ。
 あるいは、不動産業や建設業も生き残りを図ってタワーマンションを建設しようとする。高所得者であっても、タワーマンションを購入して集住化している傾向もあげられる。

 このことは、一見すると商店街を利用する消費者を増やすことにつながるから、商店街を再生させる傾向であるように思われるかもしれない。
 しかしながら、上記の通り、不況の下では小売業の経済格差が開き、零細小売店はほとんど生き残れない状況が続いてしまっている。「不況によるコンパクト化」で、商店街が再生する可能性は、おそらく限りなく低いだろう。
 そうすると、郊外にあったスーパーなどの大型店の代わりとして、駅近隣の大型ショッピングモールが取ってかわると思われる。実際、高崎駅の近隣にはイオングループの運営するOPAが建設された。これまであった商店街と百貨店のバランスはほぼ完全に崩れて、一つか二つの大商店が駅周辺の消費者をいっぺんに顧客としてしまうという状態に近づいていくだろう。

 不況は、小売企業の規模格差を開く。そして、人々が集住化していく中で小売・サービスの表舞台は郊外から市街地へと移り、そこで勝ち抜いた大規模小売店だけが、日用品・生鮮食品の消費市場をものにする。その光景は、かつての商店街とは程遠いものとなるだろう。

 まずは景気を好転させて、好況にすることである。

商店街について②

【要点】
 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』後半。まちづくりを考える三つのアプローチ。商店街が衰退することになったきっかけ、日米構造協議。小売業界の規制緩和と都市間道路の建設。後継者不足。

 

【本文】
 商店街のほとんどがどのようにして衰退してしまったかをひも解いていきたい。
 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか ―社会・政治・経済史から探る再生の道』の後半では、スーパーマーケットやショッピングセンターといった大型店が、商店街の零細小売店を駆逐していったプロセスについて主に論じられている。
 「商店街について①」で明らかにしたように、戦後日本の小売業は、当時の完全雇用政策を達成するため、誰もが安定的に自営業をいとなめるよう、数々の規制によって守られていた。したがって、大型店などの革新的なプレイヤーが現れたとしても、商店街の零細小売商たちは法律を後ろ盾にして大型店を牽制し、すぐに駆逐されることにはならなかった。
 このような状況を一変することになった出来事が、日米構造協議(1990)だという。この協議は、建前上は、アメリカと日本がお互いの経済的な構造問題を指摘しあうというものだった。しかし、事実上は、アメリカが日本にたいして外交的圧力をかけるものであった。
 協議によって決まった内容は、日本における小売業の規制緩和、そして公共投資の大幅な拡大である。この二つの政治的決定が、全国の商店街を衰退させることになった大きな原因になったという。
 まず、小売業の規制緩和によって、それまで零細小売商たちを守ってきた制度がなくなり、大型店など大規模小売商との市場競争にさらされるようになった。次に、公共投資の大幅拡大によって、全国の郊外にいくつもの都市間道路が建設されることになり、自動車によってアクセスしやすいロードサイドの商業地域が形成されていった。大型店には有利にはたらき、商店街には不利にはたらくような、法整備とインフラ整備が同時にすすんでいった。
 大店法に代わり、大店立地法(2000)が制定されたが、それによれば大型店の出店は原則的に自由となっている。1990年代から欧米諸国では、郊外のロードサイド店を流通の中心とした開発にたいする反動がはじまり、中心市街地を再興させる開発へと移行していった。その中で日本は、ただひとり時代の流れに逆行し、今では先進国でもっとも大型店の出店しやすい国となってしまった。(矢作, 2005)
 こうして、郊外に大型店が次々と立地されていくような環境がつくられたことで、人々の行動パターンは変容し、商店街にたいする需要は縮小していった。その結果、多くの零細小売店が後継者不足に悩まされ、コンビニなどのフランチャイズ店に転換したり、閉店したりしていった。以上が、新氏の主張する商店街衰退の主要なプロセスである。
 商店街にまつわる議論は、まだまだたくさんあると思われるので、今後も商店街についての考察は続けていこうと思う。

商店街について①

【要点】

 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』について。商店街のほとんどは戦後に出来上がった。完全雇用と国際競争力強化を両立させる政策。小売業の規制。それによって商店街がつくり出されたプロセス。

 

【本文】

 最近になって、久しぶりに都市計画・まちづくりにかかわる新書を読んだ。

 読んだのは新雅史氏が書いた『商店街はなぜ滅びるのか ―社会・政治・経済史から探る再生の道』である。日本において、商店街とはいかなるものであったか、あるいはその栄枯盛衰の歴史について、よく分析されていると思ったので、ここでその議論を紹介することにした。

 商店街というと、各地域において古くから欠かせない流通拠点として、自然発生のように出現してきた場所であると思われるかもしれない。けれども新氏によれば、そうではなく、商店街のほとんどは戦後の政策によって、人為的につくり出されてきた場所だという。商店街とはきわめて近代的な空間なのである。

 じっさい、歴史をひもとくと、商店街はおろか店舗を構えて商売をおこなうという仕組み自体が、かつては少数派であったとされている。店舗もつくらずにどうやって商業をいとなんでいたかというと、多くの商人は行商によってモノを売っていた。日本では、明治後半までの小売業の主流は、売り手が町を歩いて自ら消費者にとどける行商であったという。(満薗, 2015)

 では、明治から昭和にいたるまで、どのようにして日本社会は商店街をつくり上げてきたのか。新氏の考えは次のようなものだ。

 戦災復興またはその後において、日本政府は二つの目標を達成できるように経済運営をおこなっていたという。それは、完全雇用と国際競争力の向上であった。この二つの目標達成を実現させようとした過程のなかで、日本社会において商店街がつくり出される環境が整備されたのだという。

 一方では、国際競争力を向上させるために、第2次産業の労働人口を抑制する必要があった。国際競争力の向上とは、企業の生産性を向上させることであり、それは労働者一人あたりの生産量を増やすということだろう。もし、第2次産業の就業人口を延々と増やしていったら、生産性向上の投資をはかる必要はなくなり、したがって国内産業の国際競争力の強化が見込めなくなってしまう。

 そのため、工業部門における労働人口を制限しなければいけなかったが、そうすると、もう一つの柱である「全ての労働人口の職を確保する」という、完全雇用の目標は達成できなくなってしまう。そこで、第2次産業部門からあふれた労働者を吸収するために、整備されたのが第3次産業部門であった。とりわけ重要な役割を担ったのが、自営業でいとなまれる小売部門だったという。

 政府は、小売業に数々の規制を設けて、自営業の零細小売店が安定して経営できるようにしたと同時に、地域別で小売業者が協調できるよう、組合や団体をつくる制度を設けていった。具体的には、新百貨店法、中小企業団体法、小売商業調整特別措置法(商調法)、商店街振興組合法、そして大規模小売店法(大店法)などである。

 このような法整備によって、農村から都市へと移った労働者のうち、第2次産業に就かなかった人々は、次々と市街地で小売店を起業して生活を営んでいった。こうして、各地域において、商店街が多数生成されていくような環境が出来上がっていったという。

 さらにいうと、第3次産業の大部分が零細小売商によって占められているという状況は、第2次産業にとっても都合がよかった。なぜなら、モノを出荷する製造業とモノを仕入れる小売業との関係において、製造業の規模が大きく小売業が零細である方が、前者は価格交渉を有利にすすめることが出来るからである。したがって、商店街の存在は、日本の製造業の競争力向上にひと役買っていた。

 以上のようにして、完全雇用と国際競争力の向上、そして商店街の生成は、お互いを補完するようにして実現されていった。かつての日本では、これらの施策が有機的につながっていたという。

コンパクトシティについて②

【要点】
 不況によるコンパクト化。消費者の貯蓄傾向、企業や投資家の内部留保。それによるコンパクト化は健全なまちづくりにはほど遠いということ。

 

【本文】
 現在、日本の都市においてコンパクト化が進んでいるのだとしたら、その原因は不況の影響が大きいと思う。
 不況というのは、労働者の得た所得の内より多くが消費ではなく貯蓄にまわされ、また企業の得た利益の内より多くが投資ではなく内部留保にまわされるような社会状況のことをいう。
 一方では、若者のような所得水準の低い層は、自動車や戸建て住宅のような大きな買いものを控えて、貯金をためておこうとする。だから、マンションなどの賃貸住宅に住んで公共交通を利用するような生活スタイルを選好するだろう。
 他方では、企業や投資家たちはリスクの高いビジネスを避けて、より収益性の確実な事業に投資するようになる。僻地におけるリゾート開発などよりも、市街地における再開発事業を選好するようになるだろう。不況では、都市が外向きにではなく内向きに開発されていく。
 例えば、首都圏の駅周辺に高層マンションが建てられていくのは、不動産業者や建設業者が、その方が低いリスクで高い収益をあげるであろうという判断を下しているからである。それに合わせて、イオンなどの大型ショッピングセンターが、郊外のロードサイドではなく、大きな駅近隣の市街地に出店されていくのも、小売業者が同じような判断を下しているからであろう。そして、若者たちや子育て世代は、生活の利便性とコストの面から、市街地のマンションで暮らしを送ろうとする。
 このように、日本の都市ではある種のコンパクト化が進んでいるように思われるのだが、これは以前に紹介したフライブルク市のもの(コンパクトシティについて①で紹介)とはまったく違う、資本主義における不況のメカニズムに沿って進んでいる。
 これでは、商店街のような目抜き通りは生まれないだろうし、高層過ぎるマンションだと防災や環境の面からも問題がでてくるだろう。何より、民間企業の経済活動によってできあがっているので、行政の管理が行き届かず、全体的な秩序を統合する主体も存在しない。
 人間の居住環境を見直すために唱えられているコンパクトシティであれば賛成できるけれども、今の市場メカニズムがもたらすコンパクト化には問題点がたくさん出てくるんじゃないか。

 

【付け加えて】
 コンパクトシティとは若干かかわりが薄いけれども、シェアリングビジネスの流行も大事なこととしてあげられる。シェアハウスやカーシェアリングなどは、そもそも一世代でマイホームやマイカーを所有する経済的余裕がなくなってきている層が増えているからビジネスとして成り立っている。これも不況下で民間企業が利益を追求していることの結果として表れている。

 

コンパクトシティについて①

【要点】
 コンパクトシティとは。『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』(村上敦, 2017)。フライブルク市の住宅政策、流通政策、交通政策。都市計画の本質は、自治体による規制と計画にあること。

 

【本文】
 「コンパクトシティ」という言葉には、その是非はともかく、以前から関心があった。昨今の都市計画や地域政策において、よく流行している言葉である。その概要は、およそ次のようなものと考えられる。
 現代の日本には、モータリゼーションの進行によって、自動車を利用しなければ満足した生活を送ることができない地域が増えてきた。しかしながら、高齢化社会の昨今では、公共交通を有効なアクセスの手段とする後期高齢者層も増加してきており、このままでは多くの人々における生活の便が損なわれてしまう。したがって、人口や施設を公共交通の拠点に集約させて、コンパクトなまちづくりを目指す必要があるという。
 これは、主に交通問題から映し出したコンパクトシティの推進理由といって良いように思う。他にも、コンパクトシティをめぐる議論には、環境問題や財政問題といった切り口から提唱されるパターンがある。機会があれば追々取り上げたい。
 書店の中で目に付いたもので、村上敦氏の『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか―近距離移動が地方都市を活性化する』という本があったので、この議論を紹介したい。
 著者である村上氏は、もともと日本で土木工学を専攻した後、ドイツに在住してはたらいた経験を活かして、現在さまざまな環境政策都市政策を提言している。このような背景から察するに、彼の著作からは、コンパクトシティの発祥地と目される欧州の実情にのっとった本場の見聞が期待できるだろう。
 実際、読んでみると、フライブルクの都市計画について、数字や地図を用いた丁寧な紹介がなされている。村上氏によれば、フライブルクの都市計画は、およそ三つの施策に支えられているという。
 一つめは、住宅政策である。フライブルク市は、住宅の需給調整を行っている。地域の住宅市場を自治体がコントロールしているのだ。いわゆるFプランとBプランでは、土地利用や建築様式などが取り決められているが、それだけでなく、住宅の供給量についても盛り込まれている。これによって、日本にみられるような、住宅の供給過剰による空き家増加やスプロール的な郊外の乱開発を防いでいるという。
 さらに、日本の地方都市では戸建て住宅が多く建設されているのにたいして、ドイツの地方都市では集合住宅が多く建設されている。日本の戸建て率は56%だが、ドイツの戸建て率は30%であり、とりわけフライブルク市は15%以下と極めて低い。集合住宅の割合を増やすことで居住地域を集約させ、公共交通主導のまちづくりを促しているという。
 二つめは、流通政策である。とても興味深いことに、フライブルク市では店舗の品ぞろえに基づいて、商店の立地規制を行っている。具体的には、日用品および準日用品を販売する商店を中心市街地もしくは住宅地内に立地させ、非日用品を販売する商店を郊外地域に立地させるように規制をかけている。 
 こうすることで、郊外に広い駐車場を設けたスーパーマーケットが、中心市街地の商店街を駆逐してしまうような傾向を抑制し、駅周辺のにぎわいを維持しているらしい。フライブルクでは、食料や衣類のような日常的に需要のある品物は、中心市街地でなければ買うことが出来ない。逆に、キャンプ用品や自動車関連用品のような、ふだんは買わない品物をもっぱら取り扱っている店でなければ、郊外で出店することができないのである。
 最後に三つめは、交通政策である。フライブルクでは、住宅地内や中心市街地における自動車交通につよい制限をかけている。例えば、時速30km以内で走行しなければならない区間や、自動車の通行よりも路上で遊ぶ子供たちを優先しなければならない区間を設けることで、徹底して交通静穏化を実施しているという。
 さらに、LRTといった新しいタイプの路面電車を建設したり、自転車専用レーンや駐輪場などの自転車のインフラ整備をすすめたりしている。自動車以外の交通手段をより多く利用してもらうため、公共交通などの部門に十分な予算をつぎ込んでいるのである。
 以上の村上氏によるフライブルク市の施策紹介からわかるように、コンパクトシティを本格的に実現するにあたっては、住宅・流通・交通のおよそ三つのアプローチから総合的に対処していなければならないことがわかる。
 また、都市計画の本質的なところも、自治体のストイックな規制と計画にあることもわかる。村上氏によれば、住宅市場、小売市場、自動車交通のいずれにしても比較的に厳しい規制がかけられており、フライブルク市の管理下にある。それに、集合住宅や公共交通の開発というのも、フライブルク市の計画によっているものである。
 結局のところ、優れた都市計画やまちづくりを実現するには、十分な規制と計画を設けるだけの、つよい政治力と主体性が自治体に備わっていなければいけないのかもしれない。

横浜と高崎

【要点】
 横浜と高崎における都市構造の比較。その根本的な違いは交通にあること。高崎にあって横浜には見られないエリア。

 

【本文】
 故郷に帰って、新しい居住区を少し見てまわった。
 もともと学生時代は横浜で過ごしていたが、四月から就職するにあたって、故郷である高崎に戻ってきたのだ。昔と同じく、高崎の夕焼けはきれいだった。
 見てまわった結果、横浜と高崎では、都市のつくりが結構ちがうことに気づいた。もしかしたら、全く違うといって良いのかもしれない。
 先に要点をいうと、その基本的な違いは、それぞれのまちにおける主要な交通手段によるものと思われた。横浜は鉄道中心であり、高崎は自動車中心なのである。
 横浜駅には、JRにくわえて市鉄もあるし、みなとみらい線東横線京急本線、相鉄線といった私鉄も充実している。そして、繁華街や観光地の存在する関内地域へのアクセスは、基本的に鉄道で確保することができる。横浜市内において、自動車に乗って遊びに出かける学生はほとんどいないといって良いかもしれない。
 さらに、横浜市の商業施設は、駅周辺にもっぱら存在している点もあげられる。横浜駅から関内駅にかけての臨海地域については言うまでもないが、郊外においても同様の傾向がみられるのである。
 例えば、横浜市相鉄線国道16号線と並んで敷設されているが、その駅周辺には商業施設がきちんと存在している。もちろん国道16号線にも、道路沿いに商店がいくつか立地しているが、小規模な飲食店やコンビニなどが一定の割合を占めており、駅利用者をターゲットにしていることがわかる。
 横浜市の商業立地は、駅周辺が主で道路沿いが従なのである。
 それに対して、高崎市ではこの関係が逆になっている。
 先に言ってしまうと、群馬県は運転免許保有率が全国でもっとも高い、日本を代表する車社会の地域だ。だから高崎市内では、病院へ行くにも、学習塾へ行くにも、コンビニへ行く時さえ、車に乗っていくことが普通のまちである。
 高崎駅には、JRと上信電鉄という私鉄しか通っていない。しかも上信電鉄とは、世界遺産である富岡製糸場への交通手段であるにもかかわらず、設備投資の不足によりSuicaPasmoといったICカードが利用できないという状況にある。
 要するに、高崎市の鉄道交通は横浜市よりも利用者が少ない。実際、横浜駅の1日の平均乗車人員は約42万人であるのにたいして、高崎駅の1日の平均乗車人員は約3万2千人という10倍以上の開きがある。もっとも、横浜市の人口は約372万人であるのにたいして、高崎市の人口は約37万人というように、そもそも人口規模からして両者には10倍の開きがある。(ちなみに、面積をみると横浜市は437km²で、高崎市は459km²と少し高崎の方が広い。)
 このような、人口規模および鉄道利用者数の違いが、都市のつくりにたいして大きな影響をもたらしているわけだ。つまり、高崎市の鉄道駅周辺は閑散としていて、商業施設は主に幹線自動車道路沿いに立地している。
 例えば、高崎市には、上野東京ラインと呼ばれるJR路線があり国道17号線と並んで敷設されているが、上野東京ラインの駅周辺は商店が非常に少ない。まったく見られないといって良いのかもしれない。国道17号線に、ほとんどの商店が吸収されている。国道沿いには、広々とした駐車場を設けた飲食チェーン店やスーパーマーケットといった、いわゆるロードサイド店舗が立ち並んでいて、そのような商業施設が地域の市場を席巻している。
 もっというと、横浜市には見られず、高崎市にのみ見られたエリアとして、ロードサイド店舗のみで構成された商業区域というのが存在している。幹線道路沿いのロードサイド店舗が集積して、自動車専用商業地域といって良いような独特のエリアが出来上がっているのだ。これはイオンのような大型ショッピングモールとは異なる。
 具体的には、先ほどあげた国道17号線以外にも、国道18号線環状線とよばれる市道などに存在している。そのようなエリアには、文具や衣類といった日用品を扱う商店から、家具や電化製品といった非日用品を扱う商店まで揃っており、市民の外食と買い物のほぼ全てがここで済んでしまうのである。これが日本屈指の自動車社会の様相である。
 高崎市の商業立地は、道路沿いが主で駅周辺が従なのである。