LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

神宮外苑の問題

神宮外苑の問題】

    神宮外苑の再開発問題が佳境に差し掛かってきたように思う。ある意味では、今回の再開発事業は象徴的なケースになるかもしれない。
    同再開発事業は、2021年末の都市計画縦覧によって内容が公表された。当時から1,000本近くの樹木が伐採されるなど現存する自然環境を刷新する内容であったことから、地元住民をはじめとして環境専門家、建築家、一部の政治家により反対運動が行われてきた。一方で、三井不動産をはじめとする事業者側は、伐採本数などの計画変更を行ったものの、住民説明や環境アセスメントなど合法的な手続きを経ているとして事業を粛々と進め、2023年2月には事業認可を取得、3月より球場の解体工事に着手した。
    ところが、同時期にアーティストや小説家などの著名人により事業反対の意見表明が次々と行われたことから、世論とメディアは住民側を後押しするようになる。さらに、かねてから事業者の環境アセスメントに不備があるとして再開発の計画見直しと試案を提言していた国際記念物遺跡会議(イコモス)は、9月に緊急要請「ヘリテージ・アラート」を発出した。
    その後、東京都は9月から伐採する工程を改めて、事業者側に伐採着手まで「具体的な見直し案」を提示することを求める要請文を提出し、問題の樹木伐採を先延ばしにした。住民側は依然として計画の見直しを求めて反対運動を続けている。
    この件については正直詳しくは知らないけれども、分かることが二つある。
    一つは、この問題の本質は環境や財政にあるのではなく、政治的な問題であることだ。住民側は、彼らの憩いの場であった唯一無二の植生を守ろうと事業に反対している。事業者側は、再開発によって環境的にも明治神宮の財政的にも改善すると事業を正当化している。また、住民側は事業者の情報開示が不十分だとして工事の中止を求めているのに対して、事業者側は既に十分な説明をしたとして伐採に踏み切ろうとする。
    両者の言い分は、対立が始まった頃からずっと平行線をたどっており、和解困難というよりは不可能に近い。要するに、ここで争われているのは、「どちらが神宮外苑のためになるか」ではなく、「神宮外苑はどちらのものか」ということだ。事業者にしても住民側にしても、土地の主導権を得るために政治力を行使している点で、もはや紳士的に議論できる状態ではなくなっているだろう。
    そして主導権は事業者側と住民側のどちらにあるべきかという点だが、そこは各人が自分の胸に聞いてみるしかない。
    もう一つ分かることは、たいへん残念なことだが、事業者と住民側を調整するために都と国が機能していないことだ。東京都は、本件に限らずこれまで再開発の実施を民間企業に依存してきたものだから、事業者の肩をもつしか選択肢がなかったようだ。一方で、住民側の代弁者の役を果たしているのは国の機関でもなく、イコモスのような国際機関、あるいは著名な文化人であり、彼らが毅然と主張したので住民側の言い分にスポットライトが当てられることになった。
    裏を返すと、国と都が調整機能を果たしていれば、神宮外苑の問題はここまで悪化しなかっただろう。過去の公害対策のように、どこかの時点で民間企業を牽制していれば、都や国は住民側から信頼を維持できたかもしれない。しかし、ここ二十年以上は国策により民間企業の要望が優先され、規制緩和に明け暮れてきた。今回の問題は、民間主導の再開発政策の末路とも言える。

参考:https://www.tokyo-np.co.jp/tags_topic/jingu_gaien

 

【フェデラル・ブルドーザー④】

    ニューヨーク大都市圏調査会の委員長だったレイモンド・バーノンによれば、半世紀前のアメリカの再開発を推進してきた人間には、富裕エリートと知的エリートの二つの層があったという。(1)
    現実には、再開発政策は富裕層のマンションと商業施設をつくるためのものだった。しかし、そのことを表向きに主張しても幅広く支持される政策にはならない。再開発は、それが「理想的な都市をつくるためには必要なことだ」という知識人のお墨付きがあって公認される。表向きの再開発政策の推進者は、この理想に燃える類の知的エリート層だったという。
 往時のアメリカでは、ル・コルビジュエの描く機能と効率を追及した「輝く都市」が理想視されていた。それで時の権力者は、大都市に高層ビル、幹線道路、芝生を量産しようとしていたが、それをコルビジュエを引用することで正当化した。だから、当時の再開発を批判した都市計画家(J.ジェイコブズやL.マンフォード)たちは、同時にコルビジュエのことを批判していたのである。

ル・コルビジュエは歴史の重みを持った伝統的形態を軽蔑したために、過去との繋がりを失ったばかりでなく、同様に現在に関してもどれほど多くのものを失おうとしているかを認識できなくなってしまったのである。「公園の中の都市」という彼の新しい構想は、自然についても、都市と公園の機能についても、誤った認識に立つものであった。(2)

 現代の東京では、「世界都市」という理想が掲げられてきた。「世界都市」の建設は、20世紀末からはじまったグローバリゼーションという時代の変化と期を一にしている。世界が一つの経済圏につながることで、生産の現場は世界各地に分散するが、金融の機能は特定の大都市に集中し、企業の中枢もそこに集まっていく。このような都市をサスキア・サッセンは「グローバル・シティ」と呼び、ニューヨークならタイムズ・スクエア、ロンドンならドックランズ、東京なら臨海副都心という具合に、1980年代からそれぞれの都市で金融の自由化とともに大規模な再開発が行われていたことを指摘している。(3)
 要するに、グローバル・シティとしての繁栄を謳歌していくことが、これまでの東京都の目標であったといっても良い。それは東京都だけでなく、中央政府の方針でもあった。例えば、2015年の国土形成計画(全国計画)には、このような記述がある。

国際間でのヒト、モノ、カネ、情報の流れはますます活発に、かつ瞬時に行われるようになっている。このような中、経済発展と戦略的、重点的な施策展開により魅力を増したアジアの主要都市が急速に台頭しており、国際的な都市間競争は激化している。(中略)国際的な都市間競争に打ち勝つためには、国際間、とりわけアジアの中での活発な流れの中で、「開かれた国土」の考え方の下、優秀なヒトやモノを集積し、海外からの投資、情報を獲得することが重要であり、そのためには、東京を始めとする大都市においてこれらを呼び込むための環境整備が課題である。(4)

 これは東京一極集中を是認し、再開発政策を擁護してきた知識人の見解と概ね一致する。グローバル化の時代においては、世界レベルの都市間競争に打ち勝つためにも、東京への集中的なインフラ投資もやむを得ないというわけだ。そして、リニア中央新幹線によって結ばれる三大都市圏を「スーパー・メガリージョン」と位置づけ、世界を先導する巨大経済圏を築くというのが、2015年の国土形成計画の方針であった。
 もちろん同計画では、地方にも配慮して「東京一極集中の是正」について触れてはいる。しかし、その指針は「コンパクト化」だとされており、地方の人口が減少することを前提にしている。地方都市はコンパクトシティに甘んじなければならないのに対して、大都市ではメガリージョンを築こうというのだから、それで国土の均衡ある発展に配慮しているとは思われない。2015年までは国土計画でも、「世界都市」の理想が踏襲されてきた。
    確かに、この先も平和な世界が続いて、海外ビジネスの光輝くグローバリゼーションが未来永劫と続くのであれば、「世界都市」の整備方針も間違いではないかもしれない。「東京は世界の都市間競争に勝たなければいけない」という宣伝文句も、現実のものとなり続けたことだろう。
 しかしながら、ここ数年の世界情勢はどうだろうか?
 新型コロナウイルスパンデミック以降、ウクライナ戦争は世界インフレをつくりだし、東アジアでは台湾有事が取り沙汰されている。世界はグローバリゼーションから本格的に逆行しはじめたというのだ。この変化は、パンデミックになって生まれたのではなく、もともと始まっていたグローバル化から逆行する世界の動き(リーマンショックブレグジット、トランプ現象など)に、追い打ちをかけたものだという見方がある。(5)その背景には、アメリカの地位が国際社会で絶対的でなくなっていることがあり、超大国が不在のまま、崩れた世界情勢が直ちに安定化することはなく、世界をまたにかける類の経済活動は今後とも停滞を余儀なくされるという。
 ここで、国交省の役人に問いたいのだが、これまでの「国際間でヒト、モノ、カネ、情報を呼び込み世界を先導する大都市をつくる」という戦略には、どれだけの意味があっただろうか?国際的に自由な経済というのは、それを支持する国際政治の安定があったからこそ可能となっていたものだ。世界の都市間競争というのも、その「世界」は平和であることを前提にした話だった。
 これからは国家間の対立の時代、キナ臭い話が徐々に持ち上がっていく。そうなれば国際競争力とは各国の軍事力によって示されることになり、大都市の魅力で競争しようなどというのは、青臭い話でしかなくなる。
 むしろ、大都市に人が集積すればするほど、物資の補給源は海外からの輸入ルートにつよく依存してしまう。世界の流通網がいつどこで寸断するか分からない時代では、国内資源が乏しいにも関わらず巨大都市を抱えることほど、戦略的には不利にはたらくだろう。実際に、2023年の国土形成計画(全国計画)では、「国際情勢の緊迫化によって、エネルギーと食料の海外依存リスクが深刻化している」という点が書き加えられた。

緊迫化する国際情勢の下で、エネルギーや食料の海外依存リスクを軽減するため、省エネルギーの徹底や、再エネの最大限の導入、安全性が確保された原子力の活用等を含め、エネルギーの安定供給の確保を前提とし、再エネや原子力等の脱炭素電源への転換を戦略的に進めるとともに、肥料・飼料・主要穀物国産化推進など、食料安全保障の強化に向けた農業の構造転換を実現する国土づくりを推進する。(6)

 しかし、その「海外依存リスク」を最大限に深刻化させていたのは、まさに日本の知的エリートと富裕エリートが推し進めてきた「世界都市」戦略だったはずだ。今さら、省エネや食料国産化が喫緊の課題だと言われたところで、これまで国土の均衡ある発展を軽視して、大都市圏に人口を集めていたのだから自業自得だろう。
 果たして「世界都市」を目指してきた一連の再開発政策は、日本の国力を高めていたのか、実は低下させていたのか。本当のところは、「どっちだろうと知ったことではない」と思っているのではないか。

ーー
(1)マーティン・アンダーソン『都市再開発政策 その批判的分析』
(2)ルイス・マンフォード『現代都市の展望』
(3)サスキア・サッセン『グローバル・シティ』
(4)https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/kokudokeikaku_fr3_000003.html
(5)中野剛志『世界インフレと戦争』
(6)https://www.mlit.go.jp/kokudoseisaku/kokudokeikaku_fr3_000003.html