LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

ゲーテの都市論

ゲーテの都市論】
 ゲーテはドイツの統一について肯定していた。

ドイツが統一されないという心配は、私にはない。立派な道路ができて、将来鉄道が敷かれれば、きっとおのずからそうなるだろう。しかし、何をおいても、愛情の交流によって一つになってほしい。つねに、外からの敵に対して団結してほしいものだ。ドイツのターレルやグロッツェンが全国で同一の価値を持つために、統一してほしいよ。私の旅行鞄が全部で三十六の国を通るたびに開かれないでも済むように、統一してほしいな。

 全国津々浦々への移動が容易になり、あらゆる場所に同一の価値が与えられれば、国民どうしの連帯を期待することができる。公共事業の第一の役割はそこにあり、その意味で高速道路や新幹線を建設することは大いに結構なことだと、ゲーテなら言っただろう。
 ところが、ゲーテは翻って次のように言う。

けれども、ドイツ統一の内容が、大国らしい唯一の大規模な首都を持つことであり、この一つの首都が、一人一人の偉大な才能を伸ばすために有益であるとか、国民大衆の福祉になるとかいうのなら、それはまちがっている。

ドイツが偉大であるのは、驚くべき国民文化が国のあらゆる場所に均等に行きわたっているからだ。ところで、国民文化の発生地で、その担い手となり、育ての親となるのは、各王侯の城下町ではないか。もしも、数世紀来ドイツに二つの首都、ウィーンとベルリン、あるいはただ一つの首都しかなかったとすれば、いったいドイツ文化はどうなっているか、お目にかかりたいものだ。

 ゲーテは巨大都市というものに否定的だった。ドイツの統一は認めていたが、ドイツ国土の一極集中は認めなかったのだ。「みんなが大都市に集まって競争し合えば、優れたコンテンツや優秀な人材が生まれてくるだろう」という現代人がいる。そういう主張をゲーテは退け、全国の各地で自然と養われている文化を尊重すべきだという。

ドイツには、全国に分散した二十以上の大学、百以上の公立図書館がある。それに美術館、自然界のあらゆる物を集めた博物館も、同様に無数にある。というのも、諸侯がこういう美しいもの立派なものを側に集めようと配慮されたからだ。高等学校や工業学校や商業学校も、あり余るほどある。いや、学校のない村は、ドイツにはほとんどないね。けれども、この点について、フランスの有様はどうだね。

 フランスではパリ一極集中が起きていたという。パリの中央政府はフランス全土のあらゆる公務に介入し、逆にフランスのあらゆる地方がパリからの通知を待っていた。
 デュパンというフランスの女流画家は、フランス国土の文化水準のありさまを地図に描いて見せた。それによれば、開発が進んでいる州は明るい色で塗られる一方で、首都から遠く離れた南部の諸州は、真っ黒に塗られていたという。

フランスのようなすばらしい国には、一つの大中心地ではなく、十の中心地があって、そこから光明と生命が流れ出ているほうがよいのだよ。

 ゲーテがどうして国土の均衡を重視する考えにいたったのか、その経緯は分からない。ただし、その見解は石川栄耀や田村明などの偉大な都市計画家と同じだ。彼らは東京が大きくなり過ぎることを懸念し、地方都市の役割を重視していた。
    ゲーテの言っていることは日本にもそのまま当てはまる。

ドレスデンミュンヘンシュトゥットガルトやカッセルやブラウンシュヴァイクやハノーヴァーというような都市を考えてみたまえ。これらの町々がその中に蓄えている大きな生活物資を考えてみたまえ。そこから近隣の地方へ及ぼす影響を考えてみたまえ。その上で、もしこれらの都市が昔から王侯の居住地でなかったなら、すべてはどうなっていたかを自分に問うてみればいい。
フランクフルトやブレーメンハンブルクリューベックは、大きくて、見事な都市だ。それらがドイツの国富に及ぼす影響は、まったく数えきれないよ。けれども、もしそれらの都市が独自の主権をなくしてしまい、地方都市としてどこかのドイツの大国に併合されていたら、今日の姿はありえただろうか。―私は、当然、疑わしいと思う。

 

(参考)
エッカーマンゲーテとの対話(下)』
アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』