LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

冬を感じる瞬間

【冬を感じる瞬間】

 数日前に浅間山を見たら山頂のあたりが白くなっていた。たいていの群馬県民は、浅間山が白くなっていれば、今年も冬が来たなと感じるのではないか。浅間山は白くなりやすいが、他の山は白くなりにくい。
 冬は山の景色がきれいに見える。雪が降り積もっているのが良いという意味ではなく、実際に山が一番よく見える時期は冬なのだ。つまり、空気が乾燥していて空が澄んでいるので、遠くのモノがはっきりと映る。
 夏は緑が多いかもしれないが、湿度が高いので山の輪郭は良く見えない。カメラのピントが少し外れたような感じになる。大都会の人は、良い山景色というと春の桜とか秋の紅葉を思い浮かべるかもしれない。確かにそれも素晴らしいが、部分的な景色を楽しむのであれば庭園や公園に行くのが良い。いつも通りの風景、つまり車や電車の窓から山全体を眺めるなら、やはり冬だと思う。

 

【大都市と近隣は同時に発生した】

 最近なるほどと思った話。
 街路計画の分野では、近隣(neighborhood)が重視される。近くに住んでいる者どうしが連帯意識をもつことで近隣社会がつくり出され、街路はその近隣の秩序に貢献するよう設計されるべしというわけだ。
 そういった近隣の重要性は、言われてみれば、ずっと昔から当たり前のように認知されていただろうと思えてくる。しかし、いわゆる近隣社会というものが意識されるようになったのは、大都市が生まれて来てからということらしい。
 中川剛(1980)によれば、イギリス人やアメリカ人の場合、単に「近くに住んでいるから」という理由で、公式なコミュニティや自治組織をつくるということはあり得なかったという。コミュニティがつくられるためには、近くに住んでいる以上に、その構成員が同じ<生活様式>にしたがい、また同じ<信条>を共有していることが条件とされた。だから、欧米のコミュニティは人種や階級で分断されやすいものであり、白人の美しい町のすぐ隣にスラムが続くという光景が起こり得るというのである。
 ところが、大都市が生まれ、そこに種々雑多な人々が流れて住み込んでくると、市民の生活様式や信条はバラバラになり、そこに自治意識や欧米的なコミュニティを育むことは難しくなる。仮に大都市で自分たちと同じタイプの人間を求めて、新たなコミュニティをつくろうとすれば、自治意識の高い白人階級ほど、大都市から郊外へ逃げ出すことになるという。
 共有された生活様式や信条というものは、そう簡単につくられるものではなく、歴史的な裏付けがなければならない。歴史が浅く移住の絶えない大都市で、強固なコミュニティを期待することは難しい。
 そこで、大都市を小さな区域に分けて、それを非公式ながらも政治的単位として、ある程度の秩序を可能にしようというのだ。ここから「近隣社会」という発想が欧米で生まれたと中川はいう。

 都市に流入する人口は、自由よりは生活利益を求めるようになっていき、契約の風土はなしくずしになっていく。中小都市では市民社会の古典的な徳目や規範が守られている例が多いとしても、大都市は逆にそうしたモラルを守り切れない、あるいはまぬがれようとする依存的な大衆を吸収して、自治意識を低下させる。
 したがって、アメリカの大都市や法人化されていない低所得者地域に、近隣社会(neighborhood)が市の下部機構として、あるいはコミュニティを形成していくための機構として問題となるにいたったのは、近代精神が限界につきあたってからのことと言えるだろう。事実、近隣社会は、都市が急成長し始めた十九世紀半ばから注目されることとなったのである。(1)

 J.ジェイコブズは、自身の街路計画論について「大都市以外で用いるべからず」という様なことを言っていたが、「街路近隣」というものが実際のところ大都市の産物ということなのだろう。中小都市では、近くに住んでいるかどうかはあまり問題にならず、住民が生活スタイルや信条を共有しているかどうかが問題となる。近隣だからコミュニティになる、ないしコミュニティになるべきという議論は、中小都市にはなく、もっぱら大都市の中でこそ交わされてきたというわけだ。

わたしの観察を、町や小都市や、まだ郊外のままの郊外に適用しようとする読者がいないことを祈っています。町や郊外や小都市でさえも、大都市とはまったくちがった組織です。大都市を理解しようとするのに、町のふるまいを使うことで、わたしたちはすでに十分にひどい状況になっています。大都市をもとに町を理解しようとするのは、その混乱をさらに悪化させるだけです。(2)

 大都市と近隣は、表と裏の関係にある。近隣社会が大都市に固有のものだとすれば、それを対象にした街路計画というのも、大都市に固有の分野ということになる。言いかえれば、中小都市の街路計画と大都市の街路計画では、扱う対象がまったく違う、異なる分野だという話になる。

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(1)中川剛『町内会 日本人の自治感覚』
(2)J.ジェイコブズ『アメリカ大都市の生と死』

草津町の再開発②

【どうでもいい情報と重要な情報①】
    仕事ではメモが欠かせないと言う。メモを取るのは、それが必要な情報だからであろうが、そもそも、なぜメモを取るのか。もちろんメモをしなければ必ず忘れてしまうからだけれども、扱う情報全てを記憶していれば、メモは必要なくなる。そう言われてみればそうだが、そんな記憶力は誰にもないので、社会人のほぼ全員はメモ帳や付箋を多用している。
    人間の頭は全ての情報を記憶するようにはできていない。それは、大事な情報だけを記憶して、どうでもいい情報は忘れるようにできているとも言える。どうでもいいこと、くだらないこと、自分にとって要らない情報、そういったことは忘れ去り、大事な情報だけを自分に残す。ニーチェは「健忘」という言葉を使っているが、人間はモノを忘れる方が正常だということだ。
    その一方で、仕事をする人は、何でも忘れないようにメモを取る。仕事中で何度も見聞きするキーワードならさすがに憶えてしまうが、たいていの情報はすぐに忘れてしまうものだ。メモを取らないと、数日前の記憶すらまともに整理できない。
    何が言いたいかと言うと、仕事で使う情報のほぼ全ては、本人にとって大事なことではないのである。本当に大事な情報だったら、メモを取る必要はない。言い換えれば、社会人は自分にとってどうでもいい情報を延々と捌き続けている存在だと見ることもできる。

 

草津町の再開発②】
 草津町は再開発が進められているが、毎年10億円規模の投資をしているのだから、普通に考えれば町の財政は悪化しているはずである。
 ところが、実際には悪化しておらず、むしろ良くなっている。草津町の負債である起債借入額は56億円(H22年度)から33億円(H28年度)に減少し、また同町の資産である財政調整基金は24億円(H22年度)から47億円(H28年度)に増えているという。(1)この変化は、黒岩町長が再開発事業を実施している期間において起きている。この間に、観光客数が劇的に増加したわけではないし、草津町が何かを接収したわけでもない。ここには、どういうからくりがあるか。
 結論からいえば、「ふるさと納税」の効果である。これは推測等ではなく、草津町が自らの財務分析として明らかにしていることだ。(2)草津町は、群馬県内でふるさと納税の恩恵を最も受けている自治体の一つである。同町への寄付額は、H27年度から急上昇し、県内市町村において最大となった。H27年度からR元年度の5ヵ年にかけては、毎年10億円以上の寄付金を得ている計算になる。(3)
 なお、寄付金の使途の中には「温泉、観光及び産業振興に関する事業」の他に、「町長に一任」「町長が必要と認める事業」という項目があり、再開発関連が相当の割合を占めていることがわかる。この豊富な寄付金によって、草津町は再開発と健全財政を両立させているわけだ。ここまでは良い。しかし、他の温泉地はどうか。
 群馬県には四大温泉として、草津温泉の他に、伊香保温泉、四万温泉水上温泉がある。それぞれの温泉地を有する自治体(渋川市中之条町みなかみ町)は、いずれも過疎地域を抱えており、多額の寄付金を必要としているはずだが、いずれも草津町よりふるさと納税の総額が小さい。それに、3市町とも「平成の大合併」によって自治体が広域化しており、温泉地以外の地域振興も勘案しなければならない。
 それに比べて、草津町は「平成の大合併」に巻き込まれることなく、人口1万人未満の小規模な自治体として生き残り続けている。そのため、町財政は温泉街の振興に主眼を置くことができるので、ふるさと納税のように市町村単位で資金を調達できる制度は、他の温泉地よりも有利にはたらいている。
    要するに、「ふるさと納税」は地域格差是正の政策というが、実際には田舎どうしの格差を拡大させてしまっているわけだ。豊富な返礼品を揃えた地域、名の知れた地域ばかりに資金が集まっていて、それ以外の本当に救済すべき地域は、弱い立場のままとなっている。実際、草津以外の温泉地で、自治体が主体となって町をつくり変えるような公共事業を昨今見ることはできない。仮に何かするのであれば、みなかみ町のように外部の民間企業に多くを委ねる他はないだろう。(4)民間企業は、それなりに来訪者の増加を保証するかもしれないが、町の繁栄まで保証してくれるとは限らない。都合がわるくなれば、撤退してしまう可能性だってある。
    結局のところ、草津町の再開発が仮に成功しているとすれば、それは町政の変化も大きな要因だろうが、国政の影響によるところも大きい。「ふるさと納税」がなくても草津の再開発は行われたかもしれないが、その恩恵があるかないかで、一連のプロジェクトの規模は違っていたはずだろうし、財政などの状況も全く違っていたはずだろう。もっとも、実際に成功したかどうかというのは、長い目でみて評価しなければならないことだ。

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(1)https://www.town.kusatsu.gunma.jp/www/contents/1519900896434/index.html
(2)https://www.town.kusatsu.gunma.jp/www/genre/1484895425731/index.html
(3)https://www.town.kusatsu.gunma.jp/www/furusato/usage/list01/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/furusato/topics/20200804.html
(4)https://www.hoshinoresorts.com/information/release/2022/10/223300.html
 https://corp.rakuten.co.jp/news/update/2021/1018_01.html

草津町の再開発

【なぜ文章を書くのか】
 私のブログは、概ねもう今後会うことはないであろう人たちに対して書いている(偶然どこかで会ってしまう可能性もあるが)。
 たとえ賛成されないような意見であっても、「もう会うことはない」と分かっていれば、気を楽にして書ける。人間同士というのは、今後とも付き合いのある相手に対して、自由に言いたいことが言えるようには出来ていない。遠い所にいる人の方が、内心を打ち明けやすかったりもする。文章というのは、遠い人に対して本音を伝えるためにあるのかもしれない。
 はじめはメモ書き・まとめノート程度の使い方だったので、そもそも他人に読まれることを念頭に置いていなかった。しかし、二年前ぐらいの記事を自分で見返すと、自分でも何を書いているのか理解できない文章になっていたりする。あまり適当に書くと次に活かされないわけだ。
 だから、少しは他人に読んでもらうつもりで書かなければ、自分にとっても価値のない文章になってしまう。それに、自分しか分からないような書き方をするのは、書き手の態度としても良くない。とはいっても、多くの人に読んでもらって拡散してほしいわけでもない。
 私は自分の影響力を高めようとか、自分と同じ意見の人間を増やそうとして、情報を発信している人間が嫌いである。そんなことをしても時間の無駄だし、気持ち悪い。「インフルエンサー」になろうとするのは、露骨な権力欲の現れでしょう。
 では、自己満足で文章を書いているかというと、そういう面もあるが、研究のためでもある。研究成果はいずれ形にしたい。「町や都市というのは、どのように移り変わるものなのか」そういう疑問をもって大学に行ったつもりだったが、都市計画や経済の教科書を開いても、特に腑に落ちることは書かれていなかった。講義を聞いても、教員は教科書の内容を棒読みし、ボードに書写しているだけだから何もわからない。
 かといって、世の中のことは就職しても容易に分かるものではない。どんな職業・ポストであれ、社会人は巨大な装置のネジ1本に過ぎないのだから、実経験だけを頼りにしてもほんの少しのことしか明らかにはならない。あるいは、海外留学すれば全て理解できるとか、そんなウマい話はないだろう。
 要するに、社会の仕組みに依存していると何も分からなくなってしまうのだ。社会に依存すると、その時代のオーソドックスな考え方が正しいものだと信じざるを得なくなってしまう。現代的な考え方に嵌れば嵌るほど、現実は見えなくなる。世の中のことを明らかにするなら、自分で情報を収集し、自分の頭で考える必要がある。このブログは、そういった調査を記録し、保存しておく媒体でもある。


草津町の再開発】
    草津町では最近になって再開発が行われている。主な内容は以下の通り。
    2013年、湯畑広場に隣接していた町営駐車場を公共浴場(御座之湯)につくりかえ、さらに2014年にはもう一つの町営駐車場を広場(湯治広場)としてリニューアルし、中心街の自動車交通を抑制した。また2015年には、「湯もみ」の会場だった熱乃湯が大正ロマン風の新築に建て替えられた上に、電線類地中化も進められたことで、湯畑周辺に新たな景観がつくり出された。2016年には、夜の灯路計画として、湯畑の湯けむりがライトアップされるようになり、また「西の河原公園」も照明で演出されるようになった。(1)
 最近では、裏草津(地蔵地区)も整備が進んでいる。湯源泉所、足湯その他設備が改築・新設されただけでなく、2021年には町主体で建てられた漫画図書館「漫画堂」およびカフェ「月の貌」が完成した。またそれに隣接する形で、新しく高台広場まで整備されている。(2)極めつけは、2023年度竣工予定の国道292号線と中央通りの立体交差化であり、交差付近には「温泉門」と称されるオブジェが建設される予定である。(3)
    これらの事業には、それぞれ数億あるいは十数億の費用が投じられているという。そして、草津町の総入込客数も事業完成に伴って増加し、コロナ禍前の令和元年には過去最高(3,271,646人)を記録した。(4)

    なぜ、今になって畳み掛けるように草津町は再開発されているのか。この背景には、町政の大きな変化がある。
 現町長の黒岩信忠氏は、2010年に町長に就任して以降、上記の再開発プロジェクトの旗振り役を務めてきた。その下で草津町は、北山総合研究所や照明デザイナーの面出薫氏等に協力を依頼して、各事業を進めていった。初めのプロジェクトとなる湯畑広場再整備にあたっては、駐車場がなくなることについて一部で反対意見もあったが、町長は「銀座のど真ん中に駐車場が必要でしょうか?」と、住民及び町議を説得して回ったという。(5) 
   このように 「再開発」というのは、政治によって揺り動かされる。市場やコミュニティといった民間の中から引き起こされるものではない。これは東京も地方も変わらない事実であろう。もっとも東京の再開発は、中央政府と大企業が主体となって進めているものであり、自治体や住民の活動とは違う次元で進んでいるところに特徴がある。
 東京では、都市再生特別措置法といった容積率緩和策により大規模プロジェクトを連発させる形で、大企業主導の再開発が行われてきた。また東京五輪という国家的なイベントの開催も大きな影響を与えている。そういったプロジェクトの中には、地区や住民の利益に反しているせいか、いくつか反対運動の起きている地域もある。(6)
 一方で、草津町でも政治的なもめ事が無かったわけではないが、こちらは再開発をめぐる対立というよりは町長個人を狙ったゴシップであり、問題の性質が異なる。こういう問題はやめてもらいたい。(7)どちらが悪いかはともかく、草津の再開発は自治体が責任をもって進めている事業とはいえ、あれだけ急速に現状を変えているのだから、何らかの反発をくらうのも仕方ないのかもしれない。
 再開発というのは、一概に良いとか悪いとかは言えない。教育と同じで、何をやれば効果が上がるか、すぐに分かるものではない。しかし、少なくとも急速に進められる再開発というのは政治的な混乱を招くということ、それから、そもそも再開発とは「政治」の産物であることは間違いないように思う。

 

—-
(1)https://www.projectdesign.jp/201612/hotsprings/003300.php
(2)https://gunma-dc.net/article/20/
(3)https://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20211014-OYTNT50142/
(4)https://www.town.kusatsu.gunma.jp/www/contents/1485755746888/index.html
(5)https://www.town.kusatsu.gunma.jp/www/contents/1519900896434/index.html
(6)https://merkmal-biz.jp/post/11288
    https://www.asahi.com/articles/ASQ625SYXQ62UTIL01V.html
(7)https://bunshun.jp/articles/-/51625

 

『余韻都市』について③

【過疎地域の建設業③】
 果たしてICT等の最新技術が、過疎地域の建設業にとって救いになるのかどうか、以前に書いた。ちなみに結論はNOである。
 その一方で、コロナ禍が明けていくにつれて、地方建設業の人手を確保するにあたって、もう一つの選択肢が現実味を帯びてくる。東アジア・東南アジアからやってくる、出稼ぎの移民を起用することだ。
 最近の日本は、たいへん移民に対して開かれた国であるらしく、OECD加盟35ヵ国の統計によれば、2015年では約39万人の移民を受け入れており、世界第4位という地位を得ている。実際、私個人の仕事の間でも、地方建設業ではたらく海外移民は増えていると聞く。
 出稼ぎの移民が起用されるのは、グローバル化の影響もあるが、彼らの賃金が安いからだ。企業の経営側にとって、安い労働力の存在は都合がいい。
    ところが、それは裏を返せば、日本の労働者の平均賃金が上がらなくなることを意味する。移民を受け入れるほどに労働市場の競争は激しくなるから、日本の労働者はいつまで経っても豊かになれない。
    この賃金低下圧力は、そのまま国内の消費を減らすことに繋がるから、地方だけでなく、めぐりめぐって都会の経済にも不利益をもたらすだろう。
 移民の起用には、もう一つ致命的な問題がある。それは、移民を大量に受け入れすぎると、受け入れた地域の文化が崩壊してしまうことである。たとえば近年の欧州は、イスラム系移民を大量に受け入れたと言われているが、それによって近い将来にはヨーロッパ的な文化や価値観が失われてしまうであろうと言われている。
 英国のジャーナリスト、ダグラス・マレーは欧州の移民問題について追跡調査をつづけた人物として知られている。彼は、欧州各国が移民を大量に受け入れた結果、欧州の治安が急速に悪化し、一部にはアフリカや中東のような秩序になってしまった地域が出ていることを主張している。※
 もし日本でも過疎地域の働き手について、移民の労働力に頼り続けることになれば、欧州の惨禍の二の舞になるであろう。
 だから、移民政策によって過疎問題を解決するのは悪手だと考えられる。
 やはり、日本の過疎問題を解決できるのは日本の若者だけである。彼らが、地方に分散して人手不足を解消すれば、都会における労働市場の競争率も緩和されるし、土地の文化も消失しないで済む。あと、恐らく少子化も改善されるだろう。良い事づくめなのではないか。
 あとは日本の若者の価値観の問題である。大都市圏に住む日本人の中には、地方で暮らすことを「都落ち」だと考えている者もいる。しかし、日本のためには、どうしても地方に回帰してもらわなければ困るフェーズに来ている。

 そういうわけで、いわゆる「人帰し政策」に関心を寄せつつある。
 江戸時代など、人帰し政策が成功した事例は少ないのかもしれないが、実際に都市住民による大規模な農村回帰が起こった歴史的事例はある。敗戦直後とか、あるいは1970年代に起こったとされる反都市化現象(counter urbanization)というのもある。
 コロナ禍では、疑似ロックダウンが行われた。「人間の行動の自由を妨げている」という批判もあったが、正当な理由があれば、人々の行動を大きく変容させる力を国家は持っていることが証明されたわけだ。人帰し政策だって、やろうと思えばできないことではないだろう。

※ダグラス・マレー『西洋の自死 移民・アイデンティティイスラム』(2018)

 

【余韻都市について③】

    石川栄耀は、「盛り場」となる空間には、二つの条件があると言っていた。『皇国都市の建設』第四章第四節「盛り場の定義及その一般的並に現代日本的意義及その性格」には、こう書かれている。

結局に於て人間は群集する事を本能とするものであるが、それにしてもその場合、「相互」が同類意識を持ち得る範囲内のものであり且自由朗明な心情にあるものである事が条件である。

 一つは、盛り場の構成員が自由な精神をもっていること、もう一つは、彼らが相互に同類意識をもっていることであるという。
    「都市の空気は人を自由にする」と言われているように、都市は、自由な精神を培う場所だと考えられている。これは、現代社会においても流通している価値観であろう。ところが、石川が都市に見い出していたのは、自由だけではなく、そこに相互の同類意識も培われるということだった。石川はそれを「民族を結合させる結楔」と呼んでいる。

 かくして盛り場の価値は一応市民に対しその人類としての至上楽であるところの楽しき群落交歓を与える事にあるのであるが、然し之はそれ丈の価値であると解するよりは、之れを通じ民族をして極めて自然に、従って極めて確固に之れを結合せしめる結楔となるものであると迄考えるべきであろう。

 「民族」というと語弊があるだろうから、現代なら「地域住民」と言い換えても良い。石川は、「盛り場」を地域統合の手段とみなしていた。これは、街路近隣を「草の根の運動」の力の源泉と見なしていたJ.ジェイコブズの考え方に近い。単に盛り上がるための場所が盛り場ではないのだ。
 地域統合の手段という観点からすれば、盛り場の商業施設は、それぞれが個々の経営上の論理に従って活動することは好ましくない。そのため、石川は組合制度を強化して、自営業店を保護しながらも、一つの商店街が一つの資本を形成するようなことが望ましいと考えていた。

従って盛り場としては健全なる事を条件として慰楽化すると同時に、次の様な配意を怠る事は出来ない。即ち、先づ配給機関としては在来の功利主義を一徹して、極力公益理念に服しなければならぬ。その為には個々資本の個々活動は最も不合理不利であるから商業組合の制度を活用し、全街一資本の形に還元しなくてはならない。(中略)
 又店頭情趣に個性を有たらしめる事から云っても、現行家族単位の経営法には捨て難きものがある。結局は組合制度が強化し、組合の指導力が確立する形式が望ましい。

    商店街を組合主導にすることで、盛り場としての結束をつくると同時に、秩序ある盛り場を維持することで地域としての結束をつくる。こうした地域住民の連帯意識の向上こそ、石川の都市計画思想の中核を為していた。
 ところで、『皇国都市の建設』が発刊されたのは1944年の戦時下であることから、石川が大都市分散を論じたのは、あくまで防空等を目的とする安全保障上の必要からであって、平和な時代では大都市分散など必要ないのではないか、という批判もあり得るだろう。
 確かに、石川は大都市分散を論じるにあたって、戦争という時代状況に応じていた面はあったが、単に「戦時下なので小都市にすべきだ」という一時的な措置を主張したわけではない。ましてや、戦争という時流に乗っかっていたわけでもなかった。
 単なる戦時下の措置なのであれば、戦時中の期間だけ疎開や分散を主張すればいい。しかし、戦前・戦中・戦後と一貫して小都市主義を掲げていたのが石川であって、戦中では防空上の観点でもって、その議論が補強されていたというに過ぎない。
 たとえば、戦前の論考である「郷土都市の話になる迄」において、石川は大都市批判を行い、三万人〜十万人程度の小都市にこそ個性があると論じていた。そして、愛知県にいた頃には、中小都市の都市計画を実践していたという。(1)
 あるいは、戦後の石川が関わった「東京戦災復興都市計画」では、東京の人口を極力抑制し、さらに緑地帯によって東京地域をいくつかの小都市に分けることが提案されていた。もっと言うと、将来的には甲府・前橋・宇都宮・水戸といった遠方の都市に、東京の政治機能を分散することまで考えられていたという。(2)

    そういうわけで、石川の大都市分散策は、戦時下における特異な計画論だという指摘は当たらない。

    さて、『余韻都市』の話に戻ると、第3章「劇場と都市の変遷からみる歩行者と公共交通が連携した計画の重要性」では、渋谷の再開発が取り上げられている。そのまとめとして「東京では民間主導の劇場供給が、鉄道駅に近接したエリアへの集積傾向をつくり出しており、石川栄耀が自らの休養娯楽計画の空間構成が新しい都市再生の時代のモデルとなることを予感させる」とある。石川の思想が、東京の再開発に一役買うというのである。
 しかし、現在の民間主導による再開発というのは、渋谷も含めて、東京のさらなる巨大都市化を促し、国土の一極集中を激化させるものである。東京では、オリンピックの開催に伴って、300件を上回る大規模プロジェクトが完成または継続されてきた。(3)
 もっとも、民間主導というけれども、それらの大型開発の多くは、都市再生特別措置法(2002)、そして国家戦略特別区域法(2013)の下、容積率緩和などの恩恵を受けて進められたというのだから、結局は国の関与があるわけであろう。何にしても、こうして東京は「国際化」という名の下に、小都市化や組合主導などの議論は顧みられることもなく、さらなる高層ビルが建ち並んでいく有り様となる。
    このような巨大都市化の運動が、石川栄耀の都市計画論に沿うものであるどころか、むしろ真っ向から対立するものであることは、言うに及ばない。ただでさえ大都市化している地域に、さらに再開発を重ねて高密化を図り、無理やり繁栄を謳歌しようとするやり方は、石川だったら恐らく反対したのではないか。
 要するに、石川の思想に従えば、現在進められているような東京の再開発は、決して面白がるものではなく、到底容認できないものであるはずなのだ。

 

ー---
(1) https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/74/642/74_642_1767/_pdf/-char/ja
(2) 石田頼房『未完の東京計画』
(3)https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%972020-20XX-%E6%97%A5%E7%B5%8CBP%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%AF-%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2/dp/4296105132

『余韻都市』について②

 石川栄耀は、大都市住民には個人主義的な性質があると指摘していた。少し長いが、石川が大都市住民の特徴について述べた部分を引用する。

 之は居住に於てはその植民地的な貸家的な性格と相まち、隣人をして最縁遠き、無縁の木石たらしめる。それに又、大都市はその大量な群集を迅速に処理する為に自ら群集生活乃至集団処理の技巧として、その構成分子たる市民に対する扱ひを水準化してしまふ。

 即ち総ての市民を同等に待遇し何等の区別を附せしめぬ様にする。其の結果自ら市民生活個々に対して社会の容喙が浸透し得ない様になるので、結局に於て市民各自がその水準化の作用故に所謂市民的自由(之こそ田園人に最魅力ある大都市吸引力である。)を確得する事になる。そして大都市存立の本質たる功利主義と相まって、そこに利己的な主感主義、自由主義が開花の縁を与えられる事になるのである。かくして先づ「人口の大量」はその個々人の近代的性格と協働して、大都市人をして自由ではあるが、感覚的で、冷淡な個人主義的性格たる可き様導くのである。

原文ママ

 強引に要約するとこうなる。大都市では行政や企業が大量の人口を処理するために、住民たちを隣人との区別なく水準化して扱おうとする。そのような生活環境は、市民に自由を与えるが市民どうしを無関心にさせ、利己的な個人主義へと向かわせる。
 このような石川の大都市批判は、現代社会でも通用する話であろう。この大都市住民と個人主義の関係は、ニューヨークで街路空間が創出された事例について、興味深い示唆を与える。
 ジャネット・サディク=カーン氏は、J.ジェイコブズを引き合いに出して、街路近隣につくられる人間関係の重要性を主張していた。確かに、そのようなジェイコブズの解釈は正しいように思われる。ジェイコブズは、街路のつくりだす近隣関係が地域の治安に貢献するだけでなく、「草の根の運動」の力の源泉になると考えていた。

 都市の街路近隣は、自治においてもう一つの別の機能を持っています。そしてこれはきわめて重要なものです。その街路だけでは扱いきれないほど大規模な問題がやってきたときに、助けを有効に活用するという機能です。(中略)機能する地区というのは都市全体の生活の中で、一勢力として見られるだけの規模を持っていなくてはなりません。計画理論の「理想的」近隣は、こうした役割ではまるで役立たずです。地区は、市役所相手に戦えるくらいの規模と力を持っている必要があります。

 街路が地域の秩序にとって大事だという点は、サディク=カーン氏も同じ意見であろう。
 ところが、サディク=カーン氏は、ジェイコブズが言った「草の根の運動」を批判して、今度はR.モーゼスのようなトップダウン型のアクションを支持する。

 ジェイコブズは、近隣や都市の街路にこそ都市再生の糸口があること、そして再生を主導するのは結局のところ地域住民であることを理解していた。しかし、活気もなく危険な街路の状況が数十年続いた後で明らかになったのは、市場原理や民意に任せたり、もしくは何もせずインフラがボロボロになるのを待ったりしていたのでは、都市は変わらないということである。都市を新時代にふさわしい姿に更新し、ジェイコブズのビジョンを達成するために今こそ必要なのは、次世代の道路を築いていくのだという、モーゼスのようなビジョンやアクションなのである。

 確かに、リーダーシップを発揮して、権力に基づき上から開発していくやり方であれば、迅速に目標を達成できるかもしれない。
    しかし、住民の話し合いを待たず、市民の批判を押し切って開発を進めるべしという考え方は、民主主義を否定する見解に繋がる。そのようなトップダウン型の施政は、リーダーが賢明であればまだ良いが、住民の利益を顧みない悪質な人間がトップに選ばれたとき、悲惨な事態を招くというリスクを孕んでいる。まさに、モーゼスなどがその事例といえるだろうし、日本でもそういった事例はあるだろう。(1)
    サディク=カーン氏は、持続可能な社会を実現するために、トップダウン型の施政を推奨しているようだが、近現代史を振り返れば、そのようなやり方は持続可能な政治ではあり得ないはずである。
    なぜ街路近隣のための施策なのに、住民による自発的な判断ではなく、エリートによる非民主的でトップダウン型の政治が求められてしまうのか。それは、ニューヨークというフィールドが大都市だからであるように思われる。
    石川がいったように、大都市では住民が地域全体にとっての利益不利益に基づいた判断や行動をやめてしまい、個人主義的になる。そうすると、自分の居住地とは直接関係のない開発に関しては他人事となってしまうが、いざ自分が不利益を被る場合に関しては、つよい反感を示す。つまり、NIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の状態が生み出されてしまう。このNIMBYの状態は、サディク=カーン氏も批判しているものである。

 ジェイコブズが都市システムの複雑さに対して神経を研ぎ澄ましていたのをよそに、何世代にもわたって、住民たちはNIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の姿勢を崩さず、彼らが街路に望まないもの(高速道路、建設工事、住宅と商業の複合施設など)に、断固反対する態度を取ってきた。ジェイコブズが目指したような、親密で、活気があり、ひらかれた、柔軟な公共空間を実現しようとする人はかつてないほどに増えたにもかかわらず、結局のところその構想は現実のものにはならなかったのだ。

    サディク=カーン氏によれば、住民たちのNIMBY的な姿勢は、街路空間を脅かす事業だけでなく、街路空間をつくりだす事業においても見られたという。もし仮に、優れた街路空間をつくる運動を近隣で起こしたとしても、不利益を被る人間からは強く反対され、また別の人間にとっては他人事にされてしまい、広い大都市の一部の声として片付けられてしまうというわけである。
    このように「草の根の運動」に成果が出ないのは、ニューヨークでは個人主義的な市民による抵抗と無関心により、街路近隣での活動が政治的に無効となってしまうからであろう。
    したがって、大都市にこだわって都市計画を実行するのであれば、民主的な議論を諦めて、首長や国家などの権力と結び付き、トップダウンでやらざるを得なくなるというわけだ。こうして、住民のための街路空間をつくり出そうとして、住民と闘う羽目になってしまう。
    もっとも、サディク=カーン氏は、自転車レーンの敷設を進めていくにあたり、コミュニティボードでの承認を得ている事実を根拠に、民主的な手続きに基づいていることを主張している。しかし実際には、メディアでの批判が相次ぎ、特にプロスペクトパークウエストでは住民による組織的な反対運動が生まれ、訴訟騒ぎにまでなったというのだから、民主的な手続きはクリアしていても、民主的な議論は不十分だったことは否めないだろう。また、ニューヨーク市当局の間でも、彼女をめぐっては衝突等があったという。(2)
 しかし、そのような悪戦苦闘を強いられてしまうのは彼女のやり方がトップダウン型だからであり、また理不尽な反対運動や根も葉もない報道であったとしても、フィールドが大都市である以上、それは仕方がない話であろう。その意味では、大都市を礼賛した上で、トップダウンを推奨するサディク=カーン氏の主張には一貫性がある。
    市街地内で自転車レーンや歩行者空間をつくりだすことは良いことなのかもしれない。しかし、市民や当局の間で軋轢を生み出すような方法でつくり出される街路空間は、ジェイコブズが目指した街路近隣の姿とは少し違うだろうし、少なくとも石川の目指した「盛り場」の姿とは異なるのではないか。

 民主的な議論や少数派の意見といった、草の根の価値にこだわって都市計画を行うのであれば、世界に冠たる大都市化を諦めて、石川に倣って、小都市指向でやらざるを得ないというわけである。

 

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(1)https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%92%E8%9D%95%E3%82%80%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A9%E8%8F%9C-%E5%8F%8E/dp/439611656X
(2)https://www.nytimes.com/2011/03/06/nyregion/06sadik-khan.html

【参考文献】

・『皇国都市の建設』

・『アメリカ大都市の死と生』

・『ストリートファイト

『余韻都市』について①

 最近読んだ『余韻都市 ニューローカルと公共交通』には、随所において石川栄耀について触れられていた。
 具体的には、「3章 劇場と都市の変遷からみる歩行者と公共交通が連携した計画の重要性」では、劇場が盛り場において重要だとする上で、石川栄耀は「盛り場」研究の先駆者として語られている。

石川は、都市計画愛知地方委員会を中心に設立された「都市創作会」の機関誌『都市創作』(1925~1930年)への寄稿「郷土都市の話になる迄」において、業務でなく余暇を中心とした都市計画を提唱し、週末だけ余暇時間を楽しむような街ではなく、日常的に「夜」の時間をそれに充てられる街の姿を描いている。

 そして、石川の「休養娯楽計画」に言及して、その空間構成は現代においても新しい都市再生の時代のモデルになるというのである。
    確かに、石川が都市計画において「盛り場」、つまり商店街や娯楽施設を重視していたことは疑いようがない。実際、彼の代表作の一つである『皇国都市の建設』でも、盛り場という空間の役割とその歴史については特筆されている。
    しかし、石川は、盛り場の重要性を唱える一方で、それと同等かそれ以上に大事なことも主張していた。
 その点は、「7章 これからの都市・余韻都市」の中で吉見俊哉氏により、少し触れられている。

吉見氏:石川栄耀の戦災復興計画の中で、彼は東京を巨大化しようとは考えておらず、東京の人口をもうちょっと抑えて、その中に文教地区もそうだし盛り場もそうだけど、様々な生活圏をつくっていく構想があった。

 石川栄耀は、戦災復興計画の立役者であり、その際には東京の巨大化を防ごうとしていたということである。
 彼の主著『皇国都市の建設』には、大都市になった東京に対する批判と、大都市を分散させるメリットおよびその方法について、詳細に述べられている。石川は、それを「大東京百年の大計」とまで言っていた。

大東京百年の大計としては理論的にはあく迄東京を政治、工業いずれかの単能都市として、その人口を百万以下、出来得可くは五十万代に限るべきである。而して八百万の人口の中地方に疎散し得るものは疎散し得ざるものは十分なる交通設備の上衛星都市に分割分散すべきである。

 『皇国都市の建設』の副題は「大都市疎散問題」だった。要するに、石川の思想には大都市分散という、外せないもう一つの山がある。
    こういうと、石川栄耀には「盛り場」論者という面と、大都市分散論者という二つの側面があった、という程度の話で片付けられてしまうかもしれない。
    しかし、実際の石川の主張は、大都市分散ありきの「盛り場」論だった。「盛り場は大事だ」という話と、「東京一極集中はやめよう」という話は石川の中で繋がっている。
    石川は、東京のような大都市を批判していた。大都市化した空間では、功利的な資本主義が小売市場そして居住空間を占拠してしまい、人々を孤立・堕落させてしまうという。

誠に今日の都市悪の大部は、自由放任の資本主義が小売部門を通し民族の堕落を導き、又同系資本活動が居住部門を通し乱雑孤立の環境を構成し、又その変形たる交通機関が乗客相互の態度を低落せしめつつ市民性格の大部を形成したのであると云える。又これに拍車をかけるものとして功利の精神が存在してる事も否む事は出来ない。

 石川は、大都市の盛り場を「大衆心情低落化」を引き起こすものだとして、国民に悪影響があると指摘していた。だから、彼に言わせれば、大都市の盛り場は邪道ということになる。
 そういうわけで、石川は大都市化した東京を、まずいくつかの小都市に分散させることを提案した。彼によれば、小都市化のメリットは、小都市なら住民の連帯意識が生まれやすいこと(石川はこれを「隣保性」と呼んでいた)、そして農村との関係が深くなることであるという。小都市と農村がセットになり自立的な地域を全国につくり出すことが、石川の念頭にあった。「小都市の盛り場」こそ石川の推進するものだったといえる。
 ところで、『余韻都市  ニューローカルと公共交通』の中では、ジャネット・サディク=カーン氏によるニューヨークの歩行者空間創出の事例が紹介されている。

市元交通局局長のジャネット・サディク=カーン氏は街路空間の再配分を行い、車中心の道路を歩行者中心の道路に変えてニューヨークの魅力をアップさせたことで知られる。
 氏が手がけた改革で最も有名なのはタイムズ・スクエアの広場化である。ブロードウェイの四二丁目から四七丁目までを歩行者のための道路にする実験に取りかかり、結果として、タイムズ・スクエアの人流が増加し、車道は人のスペースへと変貌した。

 石川栄耀も、盛り場においては歩行者中心を唱えて、街路に自動車が通行するといったことを批判していた。歩行者空間を重視する点で二人は同じ意見だったと言える。しかし、サディク=カーン氏の方は、大都市肯定派である。

 もし地球を守りたいのなら、ニューヨークに引っ越してくるべきだと私はよく話す。ニューヨークでなくとも、大都市であればどこでも結構。(中略)何百万もの人々の住まいを、数百もの農村や郊外に広げるのではなく、高層住宅に集中させることで生まれる都市的なエネルギーこそ、実際に多くの人々がニューヨークのような大都市に文化的、専門的、政治的側面から惹きつけられる理由である。

 サディク=カーン氏は大都市指向であるが、石川栄耀は小都市指向だった。この点で両者は全く異なる方向をむいているのだが、私は石川の方が正しいのではないかと思っている。
    それについては、また追々述べていきたい。

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【参考】

・『皇国都市の建設 大都市疎散問題』

・『余韻都市 ニューローカルと公共交通』

・『ストリートファイト 人間の街路を取り戻したニューヨーク市交通局長の闘い』

田村明④

【過疎地域の建設業】
 以前に過疎地域の公共事業が立ち行かなくなる懸念について書いた。過疎地域の建設業を維持するためにはどうすれば良いか。
 一つ考えられるのが、人手が足りなくても最新の技術で補おうとする選択だろう。つまり、ICTやロボット技術等を地域に導入しようということだ。これなら人手不足が補える上に、作業員一人当たりの作業量もぐんと上がるので一石二鳥だろう。理想的な選択に思える。
 ところが、そういう自動運転のような高い技術力をもっているのは大企業であり、田舎の企業は高齢者が多く簡単に導入できない。また、中小企業なので設備投資の面からも簡単に導入できないだろう。ICTによって人手不足を一気に解決しようとすると、地元の小企業の仕事を大企業に代わってやってもらうという方針になる。
 ところで、過疎地域のような農村にとって、たとえ中小企業でも建設会社は重要な経済的アクターである。もし地元の建設会社の仕事を大企業がとってしまうということになれば、地元の建設会社はつぶれて、地域経済を大きく毀損してしまうことになる。地域社会を守るために最新技術を導入した結果、地域経済を壊してしまうというのでは本末転倒だろう。
 それに、自動運転化されると、普段の施工は効率的になるかもしれないが、そこで災害などが起きたときに現地で対応できる人員を減らしてしまうことになる。ロボットや機械は、大規模な作業量を何度も反復する、ルーティン的な施工を得意とするだろう。しかし、災害などの緊急事態では、どうしても人間、とりわけ「地域のことが良く分かっている人間」がいなければ、臨機応変に対応できないのではないか。
 だから、単にICTを導入すれば過疎問題を解決できるという考えには賛成できない。まずは現地の作業員として、将来ある若い人材を回復させることだろう。また、仮にICTを田舎の企業に導入するのであれば、そういった設備投資に意欲をもつ人材がいなければいけないが、それも若手であろう。結局、最新技術を導入するにせよ導入しないにせよ、若者を農村に回帰させなければ解決には至らないことになる。

 

【田村明④:田村の東京計画論】
 田村は大都市抑制論者だった。だから東京の巨大化には批判的であった。
 1977年の著書『都市を計画する』では、田村はこう述べている。「一〇〇〇万人をこえる巨大都市圏の一点集中型構造には限界があり、適当なまとまりのある単位で区分した多核多心構造に再編成する必要がある。巨大都市の一つの核の単位を過度に膨張拡大させないためには、安易な放射状交通機関の延長拡大は防止さるべきである。(原文ママ)」そして田村は、東京の一極集中を緩和する手段として、首都に所在する行政、司法、学術といった国家の中枢機能をそれぞれ各地方に移転させる、首都機能分散論を主張していた。
 横浜の都市計画においても、東京一極集中の緩和を意識している。
 港北ニュータウンは、一般的には乱開発を防止するためのニュータウンであったと言われているが、田村によれば、東京のベッドタウン化を防ぐための開発でもあったという。だから、港北ニュータウンのセンターには市営地下鉄は入れていたが、東京行きの鉄道路線を入れないようにしていた。実際、かつて国の都市交通審議会の間では、港北ニュータウンのセンターへ目黒から地下鉄を延伸する計画が立案されていたそうだが、田村はこれを阻止していた。
 また、横浜市営の地下鉄網は、「横浜を東から西に横断していく路線をつなげて結節点をつくり、東京一極集中の流れを緩和しようとしている」ものだったという。田村は、東京へ流れていく人口を食い止めるため、横浜市内の小都市を繋いだ都市軸というものまで構想していた。「いちばん北が田園都市線のあざみ野で、南へ港北ニュータウンのセンター、新幹線の止まる新横浜駅横浜駅周辺、みなとみらい地区、関内、本牧が、それぞれ多少性格の違う都心や小都心を形成し、それを結びつけることにより、東京への流れを少しでも食い止めようという軸線だ。」

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 要するに田村は、横浜市内の郊外や小都市が東京都内と接続し、東京に従属する地域となることを回避しようとしていた。郊外が東京に従属することは、事実上の横浜市域の縮小を意味する。
 そして、田村が大都市抑制論者であることを決定づける著作として、『江戸東京まちづくり物語』(1992)がある。そこで田村は、東京の大都市化は後世に「12のツケ」を残すものであるとして、批判を繰り返していた。その15年前の著作『都市を計画する』とは、細かい論点において主張内容に若干の違いはあるものの、「東京以外の地方都市を引き上げていくべき」ということや、「将来的には首都の中枢機能を地方に分散させたい」といった根幹の方針には変わりがなく、東京の巨大化を抑制すべきという田村の姿勢は一貫している。
 12のツケの中で、特に重要だと思われることが二点ある。
 一つは、大都市化は災害のリスクを高めるという点である。これは細かい説明は不要であろう。地震であれ台風であれ、国家の重要機関が一ヶ所に集まっていれば、一度の大災害で安全保障上の問題に発展する。巨大都市は災害に弱い。それは直近だと新型コロナウイルスの猛威をみても明らかである。
 もう一つは、大都市化すると、コミュニティが崩壊するという点である。大規模な道路建設、宅地造成、あるいは再開発事業といった、大都市化を指向する都市計画は、人口の急激な流入を招く。新しく移住してきた人たちではコミュニティを築きにくいし、また都市としてのエリアが大き過ぎると、住民としての一体感も生まれにくい。そういう環境では、市民が孤立してしまいやすいことを田村は指摘していた。
 そうした上で田村は、大都市抑制の論理を肯定していた。戦後東京では人口の流入制限が行われていたが、田村はこれを評価していた。さらに、東京都心では「もう交通機関を便利につくってゆくことを抑えた方が良い」とまで言っていた。E.ハワードの田園都市構想、グリーンベルトなどにも肯定的だった。
 田村が大都市抑制派であったことは明らかであろう。
    東京の大都市化に疑問を投げかけたのは、自治と都市計画という双方の観点からだった。大都市化するとコミュニティが崩壊してベッドタウンも市外に溢れるから自治が成立しなくなってしまう。また、急速に都市化すると緑地などのオープン・スペース、憩いの場が確保できなくなるし、何より学校用地などが取得できなくなってしまう。そういう経験を横浜で経ていた田村だから、東京の本質的な問題もくっきり見えていたのだろう。
 田村は、都市計画と地方自治を一緒くたに考える貴重な人物だった。自治がなければ都市計画が不可能だということを理解していたし、また都市計画が自治を左右するということも分かっていた。
 田村から学べることは膨大にあり、全てを容易に文章化することなどできない。書ききれないことがたくさんあるし、読み落としもたくさんあるだろう。田村の著作は、今後の人生でも何度か読み返すことになると思う。


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【参考】
・『都市を計画する』、『江戸東京まちづくり物語』『都市プランナー 田村明の闘い』

・12のツケ「災害へのツケ、地価へのツケ、住まいへのツケ、通勤へのツケ、交通渋滞へのツケ、緑とオープンスペースへのツケ、水・エネルギーへのツケ、健康へのツケ、廃棄物へのツケ、歴史的遺産や文化へのツケ、社会的弱者へのツケ、コミュニティへのツケ」