LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

『余韻都市』について②

 石川栄耀は、大都市住民には個人主義的な性質があると指摘していた。少し長いが、石川が大都市住民の特徴について述べた部分を引用する。

 之は居住に於てはその植民地的な貸家的な性格と相まち、隣人をして最縁遠き、無縁の木石たらしめる。それに又、大都市はその大量な群集を迅速に処理する為に自ら群集生活乃至集団処理の技巧として、その構成分子たる市民に対する扱ひを水準化してしまふ。

 即ち総ての市民を同等に待遇し何等の区別を附せしめぬ様にする。其の結果自ら市民生活個々に対して社会の容喙が浸透し得ない様になるので、結局に於て市民各自がその水準化の作用故に所謂市民的自由(之こそ田園人に最魅力ある大都市吸引力である。)を確得する事になる。そして大都市存立の本質たる功利主義と相まって、そこに利己的な主感主義、自由主義が開花の縁を与えられる事になるのである。かくして先づ「人口の大量」はその個々人の近代的性格と協働して、大都市人をして自由ではあるが、感覚的で、冷淡な個人主義的性格たる可き様導くのである。

原文ママ

 強引に要約するとこうなる。大都市では行政や企業が大量の人口を処理するために、住民たちを隣人との区別なく水準化して扱おうとする。そのような生活環境は、市民に自由を与えるが市民どうしを無関心にさせ、利己的な個人主義へと向かわせる。
 このような石川の大都市批判は、現代社会でも通用する話であろう。この大都市住民と個人主義の関係は、ニューヨークで街路空間が創出された事例について、興味深い示唆を与える。
 ジャネット・サディク=カーン氏は、J.ジェイコブズを引き合いに出して、街路近隣につくられる人間関係の重要性を主張していた。確かに、そのようなジェイコブズの解釈は正しいように思われる。ジェイコブズは、街路のつくりだす近隣関係が地域の治安に貢献するだけでなく、「草の根の運動」の力の源泉になると考えていた。

 都市の街路近隣は、自治においてもう一つの別の機能を持っています。そしてこれはきわめて重要なものです。その街路だけでは扱いきれないほど大規模な問題がやってきたときに、助けを有効に活用するという機能です。(中略)機能する地区というのは都市全体の生活の中で、一勢力として見られるだけの規模を持っていなくてはなりません。計画理論の「理想的」近隣は、こうした役割ではまるで役立たずです。地区は、市役所相手に戦えるくらいの規模と力を持っている必要があります。

 街路が地域の秩序にとって大事だという点は、サディク=カーン氏も同じ意見であろう。
 ところが、サディク=カーン氏は、ジェイコブズが言った「草の根の運動」を批判して、今度はR.モーゼスのようなトップダウン型のアクションを支持する。

 ジェイコブズは、近隣や都市の街路にこそ都市再生の糸口があること、そして再生を主導するのは結局のところ地域住民であることを理解していた。しかし、活気もなく危険な街路の状況が数十年続いた後で明らかになったのは、市場原理や民意に任せたり、もしくは何もせずインフラがボロボロになるのを待ったりしていたのでは、都市は変わらないということである。都市を新時代にふさわしい姿に更新し、ジェイコブズのビジョンを達成するために今こそ必要なのは、次世代の道路を築いていくのだという、モーゼスのようなビジョンやアクションなのである。

 確かに、リーダーシップを発揮して、権力に基づき上から開発していくやり方であれば、迅速に目標を達成できるかもしれない。
    しかし、住民の話し合いを待たず、市民の批判を押し切って開発を進めるべしという考え方は、民主主義を否定する見解に繋がる。そのようなトップダウン型の施政は、リーダーが賢明であればまだ良いが、住民の利益を顧みない悪質な人間がトップに選ばれたとき、悲惨な事態を招くというリスクを孕んでいる。まさに、モーゼスなどがその事例といえるだろうし、日本でもそういった事例はあるだろう。(1)
    サディク=カーン氏は、持続可能な社会を実現するために、トップダウン型の施政を推奨しているようだが、近現代史を振り返れば、そのようなやり方は持続可能な政治ではあり得ないはずである。
    なぜ街路近隣のための施策なのに、住民による自発的な判断ではなく、エリートによる非民主的でトップダウン型の政治が求められてしまうのか。それは、ニューヨークというフィールドが大都市だからであるように思われる。
    石川がいったように、大都市では住民が地域全体にとっての利益不利益に基づいた判断や行動をやめてしまい、個人主義的になる。そうすると、自分の居住地とは直接関係のない開発に関しては他人事となってしまうが、いざ自分が不利益を被る場合に関しては、つよい反感を示す。つまり、NIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の状態が生み出されてしまう。このNIMBYの状態は、サディク=カーン氏も批判しているものである。

 ジェイコブズが都市システムの複雑さに対して神経を研ぎ澄ましていたのをよそに、何世代にもわたって、住民たちはNIMBY(Not In My Back Yard:うちの裏庭ではやらないでくれ)の姿勢を崩さず、彼らが街路に望まないもの(高速道路、建設工事、住宅と商業の複合施設など)に、断固反対する態度を取ってきた。ジェイコブズが目指したような、親密で、活気があり、ひらかれた、柔軟な公共空間を実現しようとする人はかつてないほどに増えたにもかかわらず、結局のところその構想は現実のものにはならなかったのだ。

    サディク=カーン氏によれば、住民たちのNIMBY的な姿勢は、街路空間を脅かす事業だけでなく、街路空間をつくりだす事業においても見られたという。もし仮に、優れた街路空間をつくる運動を近隣で起こしたとしても、不利益を被る人間からは強く反対され、また別の人間にとっては他人事にされてしまい、広い大都市の一部の声として片付けられてしまうというわけである。
    このように「草の根の運動」に成果が出ないのは、ニューヨークでは個人主義的な市民による抵抗と無関心により、街路近隣での活動が政治的に無効となってしまうからであろう。
    したがって、大都市にこだわって都市計画を実行するのであれば、民主的な議論を諦めて、首長や国家などの権力と結び付き、トップダウンでやらざるを得なくなるというわけだ。こうして、住民のための街路空間をつくり出そうとして、住民と闘う羽目になってしまう。
    もっとも、サディク=カーン氏は、自転車レーンの敷設を進めていくにあたり、コミュニティボードでの承認を得ている事実を根拠に、民主的な手続きに基づいていることを主張している。しかし実際には、メディアでの批判が相次ぎ、特にプロスペクトパークウエストでは住民による組織的な反対運動が生まれ、訴訟騒ぎにまでなったというのだから、民主的な手続きはクリアしていても、民主的な議論は不十分だったことは否めないだろう。また、ニューヨーク市当局の間でも、彼女をめぐっては衝突等があったという。(2)
 しかし、そのような悪戦苦闘を強いられてしまうのは彼女のやり方がトップダウン型だからであり、また理不尽な反対運動や根も葉もない報道であったとしても、フィールドが大都市である以上、それは仕方がない話であろう。その意味では、大都市を礼賛した上で、トップダウンを推奨するサディク=カーン氏の主張には一貫性がある。
    市街地内で自転車レーンや歩行者空間をつくりだすことは良いことなのかもしれない。しかし、市民や当局の間で軋轢を生み出すような方法でつくり出される街路空間は、ジェイコブズが目指した街路近隣の姿とは少し違うだろうし、少なくとも石川の目指した「盛り場」の姿とは異なるのではないか。

 民主的な議論や少数派の意見といった、草の根の価値にこだわって都市計画を行うのであれば、世界に冠たる大都市化を諦めて、石川に倣って、小都市指向でやらざるを得ないというわけである。

 

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(1)https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%92%E8%9D%95%E3%82%80%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%81%A9%E8%8F%9C-%E5%8F%8E/dp/439611656X
(2)https://www.nytimes.com/2011/03/06/nyregion/06sadik-khan.html

【参考文献】

・『皇国都市の建設』

・『アメリカ大都市の死と生』

・『ストリートファイト