LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

田村明②

 都市伝説というのが昔から嫌いだった。犬も食わないようなデタラメな話をドヤ顔で聞かされるのが我慢できない。
 あり得そうであり得ない話をされるならまだ良いが、明らかにあり得ない話をされても反応のしようがない。
 特に最近の都市伝説はひどい。
 この間、テレビを見ていたら、「オレは宇宙人と交信できる」と豪語していた男と一緒に、山奥でUFOを待つという企画をやっていた。言うまでもなくUFOは来なかったが、その理由が「ロケの弁当の中身が豚肉だったからだ」と。「豚肉を食べたから宇宙人は来なかったんだ」と。とりあえず弁当を用意してくれたスタッフに謝れよ。
 デタラメを言って注目を集め、金を貰っている人間はどうもイライラする。

 文藝春秋は今度の1月号で100年目記念ということらしい。
 そこには、緊縮財政派の経済学者である小林慶一郎氏と積極財政派の評論家である中野剛志氏の対談がみられる。反対論者が同じテーブルに座って対談するのは珍しいことかと思います。
 だいたい雑誌の記事だと、両者の顔を立てようとして決着が曖昧なまま終わってしまうものですが、たいへん参考になるのかなと。

 

<グローバリゼーションの終焉②>
―以下の内容は、某評論家の著作等を踏襲してまとめたものです―

 今のグローバル化はそもそも歴史上で2度目の出来事だといいます。つまり、一度は終わっている。世界は技術の進歩とともに交流が広域化・活発化するというのは誤った歴史観です。
 カール・ポランニーの『大転換』という著作があります。そこには、1度目のグローバル化が、どのようにして始まり、どのようにして終わったのかが記されている。
 1度目のグローバル化は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのイギリス覇権の期間で、特に20世紀初頭は、現代(コロナ禍以前)と同じくらいに貿易、国際投資、移民が活発だったそうです。
 グローバル化とは端的に言えば、世界をつなげて一つの市場システムを創り上げようという運動です。「世界中を一つのマーケットにすれば、世界中のものが適切な価格で手に入る。好きな職業に就いて、好きな場所に住んで、好きな物が食べられる。そのためには、市場の中に身を投じ、たくさん働いて稼ぐことによって受益することができる。」こういうナイーブな商業主義に基づく世界観にグローバリズムは支えられています。
 こういう考え方の基底には、市場システムは万能であり、マーケットでは常に需要と供給が均衡して適切な価格で財・サービスが人びとに配分されるという市場原理主義の経済学があります。しかし、ポランニーは市場原理主義を批判し、市場の拡大によって失業問題や環境破壊、貧富の格差、コミュニティの崩壊が各国で深刻化していく状況を追っていました。自由市場では、現実の社会を統治できないというのがポランニーの洞察です。
 しかし、市場を拡大しても現実がうまく対応できない状況が明らかになると、市場原理主義の経済学者などは、むしろ十字軍的な信念に憑りつかれたように、市場を拡大するよう政治に介入していったとポランニーは言います。市場は社会の一部に過ぎないのに、市場が社会を支配しようとして、社会が崩壊していく過程がグローバル化だというわけです。
 ところが、その自由市場も世界恐慌(1929)が勃発したことによって、いよいよ秩序として立ち行かなくなると、それに応じて世界各国で政治的大転換が起こりました。それは、それまで自由市場に抵抗的だった人びとが、一気に政治勢力として躍進して発生した、まったく異なる社会主義的な政治体制でした。1930年代において、ドイツやイタリアではファシズムが起こり、イギリスなどはブロック経済化し、アメリカではニューディール政策が講じられたのは、この大転換によるものだとポランニーは主張したのです。
 そして、急激に体制が変更した各国、とりわけファシストの支配した国は、世界大戦を勃発させるに至り、1度目のグローバル化は終了するという流れになります。保護貿易自国第一主義、そしてファシズムは、世界大戦を招いてしまうという歴史の教訓が語られているそうですが、ポランニーに言わせれば、そのような政治体制の変化を招いた自由市場の拡大、つまりグローバル化こそが本当の歴史の教訓だったのでしょう。
 では、現代はどうか。
 2度目のグローバル化は、20世紀末からはじまり、国際投資・移民・貿易は急激に増えたと言います。そして、前回同様に貧富の格差といった社会問題を引き起こしましたが、自由市場の理念に憑りつかれた政治家、官僚、経済学者などのエリートは、それが正しいと信じて民営化・規制緩和自由貿易協定などの市場原理を社会に適用する政策を講じつづけました。そして、リーマンショックが起こって世界的な金融危機が発生し、自由市場の秩序が行き詰まると、イギリスはEUからの離脱を決定し、アメリカでは自国第一主義を掲げるトランプ氏が大統領に選ばれました。
 かつてポランニーが説いたシナリオにそっくりだなと思うわけです。もっとも、現代と前回とでは、状況はいろいろ異なる部分があるのでしょうが、大筋としては1度目のグローバル化と今回のグローバル化は同じような道を歩んでいるように見える。
 1度目と比べて2度目のグローバル化の大きな違いは、2度目の方はコロナ禍というパンデミックによって自由市場に一気に制限がかかったところでしょう。それがどういう結果になるかは別として、フェーズとしては、いよいよ世の中はヤバい時代に入ってきたなと思うわけです。
 以下、1度目のグローバル化と2度目のグローバル化のそれぞれのシナリオをまとめておきます。

<1度目のグローバル化
①世界的な資本・商品・人材の交流活発化(グローバル化
 ↓
②世界的なバブル崩壊金融危機世界恐慌
 ↓
③世界各国の政治体制の変化(ファシズムブロック経済
 ↓
④世界大戦

<2度目のグローバル化
①世界的な資本・商品・人材の交流活発化(グローバル化
 ↓
②世界的なバブル崩壊金融危機リーマンショック
 ↓
③世界各国の政治体制の変化(ブレグジット、トランプ現象)
 ↓
④コロナ禍 ← 今の世界ココですね
 ↓
⑤????

 ????に何が来るかは、私も分かりません。

 

<田村明②>
 田村がはじめに取り組んだ大きな問題は、首都高速道路の路線変更・地下化と言われている。
 <横浜都心部ルート>と呼ばれていたその区間は、伊勢佐木町の入口を高架でふさぎ、大通り公園の真上を通り、関内の景観を台無しにするものだった。この高速道路計画は、田村が横浜市に入庁する三週間ほど前に審議会において正式に決定されている。

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 これを覆すため、田村はあらゆる場所に出向いて調整を図った。まずは市役所内部を説得し、次に建設省へ出向いて、また神奈川県、首都高速道路公団にも回った。しかし、どこへ行っても他部局では実質的な議論はできず、事務屋とは儀礼的挨拶に留まってしまう。結局のところ、権限のある建設省都市計画課の専門官へ、田村が単独で当たった。
 本当かどうか分からないが、そこで専門官には「道路をいかに早く安く作るかが重要だ。だから同じ金なら100メートルでも長く、50メートルでも、10メートルでもいい、いや、たとえ1メートルでも長くしなければならない。美しくするとか、景観とかに使う金はないのだ」と言われたらしい。しまいには「田村は信用ならん。俺の部屋には来るな」と言われたとか。
 専門官とのやりとりでは埒が明かないまま、時間が経過し、膠着状態がとうとう地下鉄工事などの他部局にまで支障をきたす事態になろうとしていた。そこで田村は、国会議員の仲介で、当時の建設省事務次官と非公式で面会する機会を得る。本来であれば市長が赴くはずなのだろうが、田村が代理で直接交渉に行った。
 その日は、たまたま大雪で、電車は不通であったため、高速道路の一車線だけ除雪された道のりをのろのろ走っていったという。田村は次官に変更案を説明し、二応三応のやりとりをしたが、最終的には次官が諦めて、高速道路の路線は変更・一部の地下化が実質的に決定した。田村は行きと同じ高速道路の雪道を帰り、市役所で待っていた市長と助役にその結果を報告したという。

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 このような努力をしてまで、高速道路を路線変更・地下化したのは、先述の通り、それによって横浜市の中心だった伊勢佐木町や関内地区の景観が著しく毀損されてしまうことを防ぐことにあった。

 商業の中心は戦後、横浜駅付近に移ってきたが、なんといっても関内周辺は横浜発祥の地である。そこに横浜の歴史も個性も魅力もこめられている。(中略)この地区へ、巨大な構造物である高速道路を、どう入れるかによっては、町の様相は一変してしまい、問題は大きい。

 なぜ多大な労力と費用を割いてまで、景観を保護する必要があるのか?地域にとって景観がいかに重要なものであるか、きちんと説明できる理論があるのかどうかは、わからない。しかしながら、地域ではなく国家に話を置き換えると、解の糸口のようなものが見えてくる。
 たとえば国家は、社会を統治するために「権威」を必要とし、それを人びとに受け入れさせることで国民を動員する。そして、権威を可視化したものが「象徴」であり、象徴はそのシンボル性によって人びとが同じ共同体に帰属しているという想像力を掻き立てる。日本であれば皇室などがその典型であり、それ以外にも国旗や歴史上の人物なども象徴として作用する。
    地域では、住民の求心力を得るために、そういった地域的な「象徴」が必要となる。しかし、国家とは違って法定された象徴があるわけでもなければ、地元の重要人物を歴史の授業で教わるわけでもない。そこで、豊かな自然風景、伝統的な建築物、にぎやかな商店街、そういった優れた景観資源というのは、地域の有力な「象徴」になり得る。景観は地域統合において極めて重要だということだ。国家においても、富士山のある風景などは一つのナショナル・シンボルとして作用しているであろう。
 田村は、そうした地域の「象徴」としての景観の重要性を理解し、高速道路によって中心商店街の景観が壊されてしまうことの危険性を感知していたのだろう。実際、伊勢佐木町商店街や関内商店街(現在は馬車道商店街)は、高速道路が交通の便を向上させるどころか、町の発展にマイナスになるということで、市役所にルート変更を陳情していたという。

 景観はあるまとまった地域の姿だが、それが市民の協働作品だとすると、コミュニティのつながりを保つ手段にもなるだろう。互いの協力でよい景観をつくろうとすれば、共通の考えや連帯の気持ちが必要だし、上からの統制としてではなく、自発的に地域をよくしたいという愛情をもつのが先決だ。

 権威(象徴)と人民の関係として重要なのは、それぞれが互いに影響し合う関係にあるということだ。
 地域の「象徴」として優れた景観は、住民に自分たちが同じ共同体に属しているという連帯感を高めて、自治体の事業に協力したり地域のために行動したりする動機となる。それによって、景観がさらにより良いものとなれば、その権威はさらに高まり、住民の連帯感もまた高まるという正のスパイラルが生まれる。
 逆に、一度でも地域の「象徴」が大きく毀損されてしまうと、地域のアイデンティティが失われて、住民がより良い景観をつくる意識もなくなってしまい、さらに景観が悪化して地域の象徴性も弱くなってしまうという負のスパイラルも生まれる。
 田村は、この負のスパイラルが発生してしまうことを強く恐れていたはずだ。

 もし、あのとき、高速道路の地下化ができなかったら、やはり自治体は下請機関的無力感におちいったろう。総合性などと夢みたいなことをいうなという、バラバラ主義が主流になったろう。人間性や景観などという価値はずっと後位におかれたろう。
 そして、あの巨大な構造物が、町をずたずたに引きさいてしまい、横浜の関内はどこにでもある、ありふれたごたごたした町になってしまったろう。その構造物にひき裂かれた馬車道も、伊勢佐木町も、今日のようなモール化というエネルギーは発揮できなかったはずである。
 最初の一つがどちらに動くかによって、都市づくりはまったく変わる。

 つまり、高速道路の地下化に成功したことによって、田村は横浜のまちづくりを正のスパイラルの軌道に乗せたとも言える。

 

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参考文献:

『都市ヨコハマをつくる』『まちづくりと景観』『都市プランナー田村明の闘い 横浜“市民の政府”をめざして』『国力とは何か』