LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

田村明①

 インフルエンサーと呼ばれる人たちがいる。SNSを駆使してそういうのを目指す人もいるのだろうが、若者はあまり「影響力を発揮しよう」などと考えるべきではないと思う。バズる動画をつくって、クラスで人気者になって、あわよくばテレビに出ようとか、そういうのは無害かもしれないが、社会一般に意見を発信するとか、真面目なことを始めるとシャレにはならない。
 若者というのは、例外なく考えが未熟なので、自分の考えを広めようとしても、間違った意見や嘘の情報を流してしまうことがある(まぁ、いい年こいてデタラメな言説を垂れ流すような大人は本当にみっともないのだが)。そうした場合、自分のSNS上のつながりが広ければ広いほど、黒歴史をつくってしまうハメになる。
 自分の考えが未熟なうちは表に出さない方が、実際のところは身のためなのだ。私のブログもかなり狭い空間でやるようにしており、一部の例外を除いて意見を押し広めるようなことはしない。
 最近読んだ本に、こういうことが書かれていた。

最近は、SNSだかブログだか知らないけれども、訓練も積んでないのに、不用意にものを書き出して、公表しちゃう人がたくさんいる。別にかまわないんですが、しかし、言葉は自意識を増長させるようなところがありますよね。言葉は自分に向ければ自意識を増長させ、人に向ければイデオロギーになる。だから本当に厄介だなと思います。

 このブログでもなるべく自分の意見は書かないようにしたい。やるべきことは、過去の優れた研究や著作を掘り起こして、それを右から左へ書き写す。書き写していくうちに、自分の考えがおのずと発達していくのを待つしかないんじゃないか。

 

【グローバリゼーションの終焉①】
―以下の内容は、某評論家の著作等を踏襲してまとめたものです―
    グローバリズムは終わります。もう終わったという見方のほうが正しいとさえ言えるかもしれない。
    これは、単にコロナ禍で世界中の移動がしにくくなった、とかいう一時的な現象を意味する話ではありません。コロナ禍が止んでも、依然として社会は脱グローバル化に向かっていくという話です。「これからの社会はグローバル化だ」とか、「世界に羽ばたいて活躍しよう」だとか、そう言える時代は終わりを遂げつつあるのです。
 グローバル社会は、コロナ禍の前から危うい状態でした。リーマンショックが起こり、イギリスはEUからの離脱を決定し、自国第一主義トランプ大統領が生まれて、米中貿易摩擦が起こり、移民問題が洋の東西を問わず深刻化していた。今後、本当にグローバル社会が終わったとすれば、コロナ禍はその契機ではなく、ダメ押しだったと見るべきでしょう。
 現代のグローバル社会が立ち行かなくなる理由を完璧に説明することは難しいと思いますが、いくつか考えるヒントみたいなものはあげられます。
 例えば、ロバート・ギルピンらの「覇権安定理論」というものがある。
 覇権安定理論とは、次のようなものです。グローバル社会というのは物資や資本、人材が国境を越えて自由に行き来することができるような社会だが、そういう社会は世界各国を統治できるような覇権国家が存在してはじめて成立する。しかし、グローバル化という世界的交流の過程で、他国も経済成長を遂げていき、覇権国の相対的地位は低下していく。そして、いずれ覇権国に挑戦する国が育ってしまう。覇権国が挑戦国に敗れれば、その国際秩序は崩壊し、したがってグローバル化も終わる。こういう理論です。
 かつてイギリスが覇権国だった時代では、アメリカが挑戦国として勝利し、アメリカの時代がスタートしましたが、当時はアメリカが圧倒的なパワーをもって勝利したから、すぐにアメリカは覇権国としての地位に上って新たなレジームをつくり出しました。
 ところが、現代はアメリカが覇権国として衰退しつつあるものの、それにとって代わる大国がいない、いわゆる「Gゼロ」の状態と言われています。これでは新体制が生まれないまま、世界各地域における覇権をめぐって、各国の対立が際立っていく事態になる。仮にアジアでは中国が新覇権国として勝利すれば、現在の英語圏のレジームは終了することとなるでしょう。いずれにしても、アメリカが治めていた自由経済圏は、終わりに近づきつつあるというわけです。
 グローバリズムが終わるということを示唆する話は、いくつかあります。歴史を紐解くと、いろいろ面白いものが見えてくる。

 

【田村明①】

 横浜の街は荒れていた。むりもない。戦災と進駐軍による市街地まるごとの占領。やっと返還されたのちも、戦争と接収の傷あとが残ったまま放っておかれた。そのうえ、緑深い郊外部分は、東京からのスプロールに荒らされている。人びとの気力は萎えていた。

 1963年、横浜市長飛鳥田一雄が当選した。以後、飛鳥田は革新首長の先駆者的な存在となる。
 飛鳥田は、社会党の公認を得た野党の首長だった。そのため、市長としては市会と対立する構図となり、議員たちと対抗していかなければならなかった。そうするにあたって、飛鳥田は二つの方法をとったという。
 一つは、飛鳥田の公約の目玉であったとされる一万人集会である。飛鳥田は、町内会の実力者などに働きかけて、市民の自主的な主催という形で一万人集会を実施していた。もっとも、一万人では規模が多すぎて発言できない人が多いということで、後には小規模の区民会議という形となって実施された。要するに、議員を介さずに直接市民と接点をもち支持を集めようとしていた。
 もう一つは、飛鳥田が市行政をコントロールしていくにあたって集められた、ブレーン集団だった。
    当時、国全体としては公害問題を抱えており、横浜市としては社会基盤の未整備に悩まされていた。これらの問題は、自治体が市民の生活の不満と向き合わずに、産業政策を優先する中央省庁の言いなりになっている構造が原因だとみなされていた。したがって、横浜市民は中央省庁から距離をおき、独立した意志決定のできる市政を望んでいたという。社会党員だった飛鳥田が市長に選ばれたのにも、そういう背景がある。このため、飛鳥田は市政中枢の役職には横浜市内部からではなく、外部の人材を積極的に登用していった。
 具体的には、市政全般の相談役として起用された東京都政調査会研究員の鳴海正泰。また、アメリカ軍に接収された土地の接収解除担当として選ばれた防衛施設庁の森道夫。そして、都市プランナーとして六大事業を担当することになったのが、田村明だった。
    田村は、六大事業の推進のため横浜市に企画調整局を設置するだけでなく、自らもその局長として非常につよい影響力を発揮したが、そのような権力を行使できたのも、飛鳥田にブレーンとして起用されていたという背景がある。
    横浜市の職員として田村が直面していた問題とは、一言でいえば「乱開発」だったと思われる。国の圧政的な高速道路計画、急激な人口流入に伴う宅地造成、公害をもたらす民間事業、高度経済成長期に特徴的なあらゆる開発圧力に対峙したのが田村だった。
 田村は大学時代、建築家の丹下健三から指導を受けていたそうだが、彼自身は「東京計画1960」のようなグランドデザインをつくるようなタイプではなかった。むしろ、そういう理想郷を描こうとするだけで、都市計画の実務と接点を持ちえないようなグループを「デザイン派」と称して、批判を加えていた。

 デザイン派の人びとが都市計画と思っていたことは、ここでいう計画(プランニング)ではなく、多くは実態の都市と離れた抽象的なデザイン・スタディであったことに気がつくのである。都市という怪物にデザインだけでたち向かっても現実の都市を動かすことにはならない。

 田村が横浜市でやっていたことは、自らの理想を実現することではなく、とにかく現実の問題に対処することだった。六大事業にしたって、そのねらいはプロジェクト方式によって自治体の主体性を喚起させ、縦割り行政を是正するところにあった。つくりたい都市をつくることが目的ではなかった。
 ただ田村は、横浜市に迫りくる開発圧力をコントロールして、横浜の歴史と環境を保全しようとした。それで結果的に、優れた都市プランナーとなった。
 田村が活躍した時代と現代では、都市問題をめぐる状況は大きく変わってしまっている。かつて田村が直面したような開発圧力は、今後の日本では容易には発生しないだろう。あるいは、田村のように市政の中枢に置かれて、その知恵を活かす機会などほとんどないであろう。しかし、それにもかかわらず、都市問題というものを考える上で、我々が田村から学ぶべきものは多いように思われる。