LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

商店街について①

【要点】

 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』について。商店街のほとんどは戦後に出来上がった。完全雇用と国際競争力強化を両立させる政策。小売業の規制。それによって商店街がつくり出されたプロセス。

 

【本文】

 最近になって、久しぶりに都市計画・まちづくりにかかわる新書を読んだ。

 読んだのは新雅史氏が書いた『商店街はなぜ滅びるのか ―社会・政治・経済史から探る再生の道』である。日本において、商店街とはいかなるものであったか、あるいはその栄枯盛衰の歴史について、よく分析されていると思ったので、ここでその議論を紹介することにした。

 商店街というと、各地域において古くから欠かせない流通拠点として、自然発生のように出現してきた場所であると思われるかもしれない。けれども新氏によれば、そうではなく、商店街のほとんどは戦後の政策によって、人為的につくり出されてきた場所だという。商店街とはきわめて近代的な空間なのである。

 じっさい、歴史をひもとくと、商店街はおろか店舗を構えて商売をおこなうという仕組み自体が、かつては少数派であったとされている。店舗もつくらずにどうやって商業をいとなんでいたかというと、多くの商人は行商によってモノを売っていた。日本では、明治後半までの小売業の主流は、売り手が町を歩いて自ら消費者にとどける行商であったという。(満薗, 2015)

 では、明治から昭和にいたるまで、どのようにして日本社会は商店街をつくり上げてきたのか。新氏の考えは次のようなものだ。

 戦災復興またはその後において、日本政府は二つの目標を達成できるように経済運営をおこなっていたという。それは、完全雇用と国際競争力の向上であった。この二つの目標達成を実現させようとした過程のなかで、日本社会において商店街がつくり出される環境が整備されたのだという。

 一方では、国際競争力を向上させるために、第2次産業の労働人口を抑制する必要があった。国際競争力の向上とは、企業の生産性を向上させることであり、それは労働者一人あたりの生産量を増やすということだろう。もし、第2次産業の就業人口を延々と増やしていったら、生産性向上の投資をはかる必要はなくなり、したがって国内産業の国際競争力の強化が見込めなくなってしまう。

 そのため、工業部門における労働人口を制限しなければいけなかったが、そうすると、もう一つの柱である「全ての労働人口の職を確保する」という、完全雇用の目標は達成できなくなってしまう。そこで、第2次産業部門からあふれた労働者を吸収するために、整備されたのが第3次産業部門であった。とりわけ重要な役割を担ったのが、自営業でいとなまれる小売部門だったという。

 政府は、小売業に数々の規制を設けて、自営業の零細小売店が安定して経営できるようにしたと同時に、地域別で小売業者が協調できるよう、組合や団体をつくる制度を設けていった。具体的には、新百貨店法、中小企業団体法、小売商業調整特別措置法(商調法)、商店街振興組合法、そして大規模小売店法(大店法)などである。

 このような法整備によって、農村から都市へと移った労働者のうち、第2次産業に就かなかった人々は、次々と市街地で小売店を起業して生活を営んでいった。こうして、各地域において、商店街が多数生成されていくような環境が出来上がっていったという。

 さらにいうと、第3次産業の大部分が零細小売商によって占められているという状況は、第2次産業にとっても都合がよかった。なぜなら、モノを出荷する製造業とモノを仕入れる小売業との関係において、製造業の規模が大きく小売業が零細である方が、前者は価格交渉を有利にすすめることが出来るからである。したがって、商店街の存在は、日本の製造業の競争力向上にひと役買っていた。

 以上のようにして、完全雇用と国際競争力の向上、そして商店街の生成は、お互いを補完するようにして実現されていった。かつての日本では、これらの施策が有機的につながっていたという。