LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

商店街について②

【要点】
 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか』後半。まちづくりを考える三つのアプローチ。商店街が衰退することになったきっかけ、日米構造協議。小売業界の規制緩和と都市間道路の建設。後継者不足。

 

【本文】
 商店街のほとんどがどのようにして衰退してしまったかをひも解いていきたい。
 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか ―社会・政治・経済史から探る再生の道』の後半では、スーパーマーケットやショッピングセンターといった大型店が、商店街の零細小売店を駆逐していったプロセスについて主に論じられている。
 「商店街について①」で明らかにしたように、戦後日本の小売業は、当時の完全雇用政策を達成するため、誰もが安定的に自営業をいとなめるよう、数々の規制によって守られていた。したがって、大型店などの革新的なプレイヤーが現れたとしても、商店街の零細小売商たちは法律を後ろ盾にして大型店を牽制し、すぐに駆逐されることにはならなかった。
 このような状況を一変することになった出来事が、日米構造協議(1990)だという。この協議は、建前上は、アメリカと日本がお互いの経済的な構造問題を指摘しあうというものだった。しかし、事実上は、アメリカが日本にたいして外交的圧力をかけるものであった。
 協議によって決まった内容は、日本における小売業の規制緩和、そして公共投資の大幅な拡大である。この二つの政治的決定が、全国の商店街を衰退させることになった大きな原因になったという。
 まず、小売業の規制緩和によって、それまで零細小売商たちを守ってきた制度がなくなり、大型店など大規模小売商との市場競争にさらされるようになった。次に、公共投資の大幅拡大によって、全国の郊外にいくつもの都市間道路が建設されることになり、自動車によってアクセスしやすいロードサイドの商業地域が形成されていった。大型店には有利にはたらき、商店街には不利にはたらくような、法整備とインフラ整備が同時にすすんでいった。
 大店法に代わり、大店立地法(2000)が制定されたが、それによれば大型店の出店は原則的に自由となっている。1990年代から欧米諸国では、郊外のロードサイド店を流通の中心とした開発にたいする反動がはじまり、中心市街地を再興させる開発へと移行していった。その中で日本は、ただひとり時代の流れに逆行し、今では先進国でもっとも大型店の出店しやすい国となってしまった。(矢作, 2005)
 こうして、郊外に大型店が次々と立地されていくような環境がつくられたことで、人々の行動パターンは変容し、商店街にたいする需要は縮小していった。その結果、多くの零細小売店が後継者不足に悩まされ、コンビニなどのフランチャイズ店に転換したり、閉店したりしていった。以上が、新氏の主張する商店街衰退の主要なプロセスである。
 商店街にまつわる議論は、まだまだたくさんあると思われるので、今後も商店街についての考察は続けていこうと思う。