LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

都市計画について④

 一昨年前から、某雑誌に読者投稿の枠で論考を出していた。若年なのが良かったのか、景気よく掲載してもらっていたが、コロナ禍で編集長が暴走。コレには関わりたくないと思い、某雑誌からは足を洗うことにした。
 危険から回避できたのは良かったけど、物書きとしてはフリーター化してしまったなぁ。今度はどこのお世話になるかを検討中。とりあえずブログは気ままに書けるから良い。

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 なんだか違和感があるので敬語やめます。

 都市計画論というのは、ある都市への人口集中を肯定するものと、それ以外の都市への人口分散を主張するものとで二つのパターンがある。
 集中の方は、都市を再開発するということだから、ある意味では当該都市の領域だけを視野に入れていればいい。ひたすら都市内部の魅力と利便性を引き上げることに関心が向けられる。
 ところが、分散の方だと、それ以外の都市を巻き込んだ計画となる。都市を分散させるという発想は、一つの都市圏より広い範囲をあつかう地方計画や国土計画という考え方がないと出て来ない。
 E.ハワードは近代における都市計画の父の一人といわれているが、彼はロンドンの人口分散を唱えたのだから、実際は地方計画の父といった方が良いのではないか。

 戦前の日本は、というより世界は、分散論が盛っていたらしい。1924年アムステルダム国際都市計画会議で大都市圏計画の7原則(1)が定められてから、1920年代~1940年代にかけて大都市圏の地方計画が大いに論じられたという。この7原則の一つには、「自動車交通の発達は要注意」とあり、もうこの時代から自動車交通が抑制の対象として論じられていたことには率直に驚いた。
 日本でつくられた大都市圏計画の代表的なものとしては東京緑地計画(1939)があげられている。ただし、それは第二次世界大戦の影響で「防空」などの要素が加わり、軍事的な計画へと変えられてしまう。

 その一方で、分散論にはもう一つの潮流があるようだ。
 それは、はじめから戦争を念頭に置いた国土計画である。首都が打撃を受けても、国家が戦争継続能力を維持できるように、おのおのの地方を工業生産・食糧生産の拠点としてワンセットで機能する自給自足圏として整備し、それらの地方を高速道路などによって結び合わせる。アウタルキー的(自給自足的)国土計画論と呼ばれ、ナチス・ドイツによって発達したらしい。
 先ほどのアムステルダム国際会議の大都市圏計画とアウタルキー的国土計画とでは、目的も考え方もまるで違う。前者は、大都市の一極集中を緩和することが目的であり人々の生活に焦点を当てているが、後者の目的は国家安全保障であり、それを高めることが重視される。要するに、平時の計画と有事の計画の違いでしょう。
 戦中の日本も、このアウタルキー的国土計画論に影響されて、工業地帯などの地方分散をすすめている。疎開というのも一つの分散政策なのだろう。1930年代の後半では、東京圏の工場立地が著しかった30km~50km圏域が規制地域となり、北関東の水戸、高崎、桐生、宇都宮、小山などの地区が工業建設地域に指定された。うちの県の自動車メーカーであるスバルの前身だった中島飛行機も、大規模な土地区画整理事業の対象となっていた。
 もっとも石田によれば、日本の戦時における工業分散は全く系統だったものではなく、国土計画の体を成していなかったらしい。

しかし、これらは系統だった国土計画・地方計画に基づいて進められたとは、とても思われない無秩序・無計画なものでした。(中略)交通施設・輸送力の増強の面でも、アウトバーンの整備が進んだドイツと比較するまでもなく、ほとんど見るべきものがありませんでした。それぞれの地方が自給自足的圏域を形成するということも全く無かったわけで、戦時体制下の国土計画は絵に描いた餅に終ります。

 日本の国土計画が本格的にはじまるのは戦後の話になる。

 

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参考:石田頼房『日本近代都市計画の百年』

⑴    ①大都市の無限の膨張は望ましくない。②衛星都市建設による人口分散。③緑地帯による市街地とりかこみ。④自動車交通の発達は要注意。⑤大都市のための地方計画。⑥地方計画の弾力性。⑦土地利用規制の確立

コンビニについて

 仕事柄、車で山の現場まで上って行くことが多い。
 行く途中でコンビニに寄るのだけど、最近確信したことがある。山の方にあるコンビニって、ヤマザキショップばっかりだ。
 調べてみた感じ、それまで「デイリーヤマザキ」だと思っていたけど、どうもデイリーヤマザキヤマザキショップはちょっと別物らしい。
 ヤマザキショップは、通常のコンビニと違い、いろいろと縛りが緩いようだ。運営費は月3万円のみでロイヤリティは0円。24時間営業しなくてもいいし、ヤマザキの商品を仕入れていれば、後は基本的に何をしてもオーナーの自由だという。要するにFCではなくVCに近い。
 オーナーの自由度が大きい代わりに、サービスが向上しにくく知名度も上がりにくいので、他のコンビニと競争すれば劣勢に立たされてしまう。都市部ではやりにくい。したがって、山地の商店数が限られており、競争社会とは縁遠い地域において、ヤマザキショップのような小売形態が成り立つのだろう。

「条件が緩やかなので大手コンビニが進出しづらいところに出店できるのです」(渡辺氏)

 それにしても、平地にあるコンビニってサービスがどんどん良くなって本当に便利だけど、あれは大丈夫なのか。オーナーについて良い噂を聞いたことがない。24時間営業はきつそうだし、そんなに儲かっているわけでもなさそう。本部が生かしつつ搾りとってる様相に、奴隷制と近いものを感じる。不況がずっと続いているから、商業がこうなってしまうのはどうしようもないのだけど。
 嫌になったら、山に移住して、ヤマザキショップをはじめるのも一つの手なんじゃないか。

 

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参考:https://nikkan-spa.jp/1607327/2

住宅について

 ある時、上司と一緒に仕事で車に乗っていたら、住宅の話題になった。そのうち上司が外を見て「あれはどこどこのハウスメーカーが建てた家だね」ということを言った。結婚して家を選ぶようになって、いろんなカタログを見ているうちに、住宅の特徴がけっこう判別できるようになるという。
 確かに、そういう目は持っておきたい。車の中から家の外観を一目見ただけで、あれは○○の会社の家だとか、あれは何年代に流行った様式だとか、あれは恐らく築何年だろうとか、言い当てられるようになれば、研究は捗るだろう。

商店街について④

 最寄りの駅の向かい側に、新しくクレープ屋さんができた。
 駅の周辺はだいぶ前から活気を失いシャッター通りになりかかっていたというので、新規出店は意外だった。
 ところが、今度はまたすぐ付近に台湾カステラのお店ができるらしい。地方の駅近くにお店が増えてきている?

 コロナでもはや東京にいられなくなった業者が地方の商店街へ店舗を移しているのだろうか。飲食サービス店のフットワークは軽い。こんど商業関係の統計とか調べてみたら面白い結果がでるんじゃないか。

都市計画について③

 自分の職場の中に、よく休みがちな人がいる。50代くらい。
 両親の介護をしているらしい。本人も病気がちという。
 一昔前は仕事の出来る人だったようで、今の状況にも関わらず周りからは一目置かれている。彼が健常に戻ることを期待して、職場の人たちはいろいろバックアップしようとしているが、中には休みたがる彼の姿勢に対して疑問を感じてきている人もいる。
 放置すればずっと休んでしまいそうだが、周りが気を遣おうとすると、それが逆に本人からすればバリアに感じられてしまう。さらに自分を疑う者までいれば、なおさら孤立感を覚えることになる。彼の境遇は本当に苦しいものだと思う。
 いったん距離をとった組織にまた戻って活動再開するというのは、けっこうエネルギーが要る。本人が若年ならまぁ頑張れという感じだが、年配で持病があるとなるとエネルギーもなかなか出ないだろう。
 どうにかならないのか。

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 前回は、高度経済成長期に木賃アパートベルトが形成されたという話でしたが、実はその下地となる出来事がありました。それは1900年代に遡ります。
 日清戦争(1894-95)と日露戦争(1904-05)が起こったことで日本の重工業化は飛躍的に進みましたので、日本が本格的に近代化して資本主義体制になったのは1900年代ということになります。一方で、都市計画法および市街地建築物法が制定されたのは1919年ですが、それまで東京には何ら建築規制というものが無かったといわれています。
 要するに、高度経済成長期のパターンと同様、明治の東京も都市計画が済んでいないままに人を集めてしまったわけです。この時期に形成された市街地のエリアが、いずれ形成される木賃アパートベルトと一致するといいます。f:id:kawakami_takeru:20210731173259p:plain

 内務官僚の飯沼一省によれば、「明治から大正の初期にかけては、都市計画の立場からいえば一の暗黒時代であった。」とのこと。
 農地の道路がほとんどないところに家屋が次々と建てられ、乱雑で無秩序な迷路型をした市街地が出来上がっていきました。いったん市街地が出来上がってしまうと、その地域を街区割りから根本的に整備し直すことは簡単にはできません。都市の激しい変化が起きている部分というのは、上物と呼ばれる建築物や工作物の部分で、その下の土地区画のあり方を大きく変更させることができるのは、ほんの僅かな場所だけです。

 だから、明治時代の東京は戦争をやる前に、都市計画の法整備をやっておく必要があったのですが、石田によれば、これも中途半端に終わってしまっていたといいます。
 1919年に都市計画法および市街地建築物法が定められる以前、都市計画にかかわる制度として、市区改正条例(1888)と土地建物処分規則(1889)の二つがありましたが、もう一つ、建築規制のための制度として家屋建築条例が定められる予定になっていたといいます。この家屋建築条例だけは制定に至らなかったのです。どうして制定に至らなかったのかは、それに関わる文献が少ないのか不明とのこと。
 市区改正条例によって道路や上水道の整備をすすめ、用地取得の方法について土地建物処分規則によって取り決めていましたが、民間が建てる建物の建築基準について定められていたのは家屋建築条例でした。そこに記されていたのは、建築線にかかわる規定、敷地内空地にかかわる規定、建物高さにかかわる規定など、欧米建築法規に近い高い水準の規定だったといいます。
 これが流産してしまっていたために、東京はきちんとした建築基準のないまま、戦争を伴う近代化によって無秩序な市街化がすすみ、木賃アパートベルトが形成される下地が出来てしまったというわけです。この東京の経緯は、建築規制や区画整理が出来ていないままに市街化してはいけないという教訓を残しています。

 この時期に建築条例が制定されなかったため、1919年の市街地建築物法制定までの東京は、事実上何ら建築規制が無いまま市街化が進んだということは極めて不幸なことでした。東京旧15区の周辺部から、それに接する「郡部」にかけてが急速に市街化するのは1900年代に入ってからのことですが、これらの市街地形成が現在のいわゆる木賃アパートベルト地帯と一致することを考えれば、この東京家屋建築条例の流産の大きさがわかると思います。 

 

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参考『日本近代都市計画の百年』

都市計画について②

 これは有名な話らしい。

 山手線の外側には、木賃アパートベルトと呼ばれる地帯があります。
 過密化、建物の老朽化、高年齢層の滞留など、東京でもっとも災害危険度の高い問題市街地です。
 高度経済成長期にあたる1955年から1965年にかけて、「金の卵」と呼ばれた大量の若年労働者が、東京圏に移住していきました。その数は約350万人にのぼります。そして、彼または彼女らの住居として、大量の低質な民営賃貸木造共同住宅(以下、木賃アパート)が建設されていきます。多くの木賃アパートは、通勤および生活の上で便利な山手線のすぐ近くに立地し、中には木賃アパートが全住宅戸数の過半を占めるような地区も現れていきました。そういった地区が山手線沿いに並んでいくことで形成されたのが、木賃アパートベルトというわけです。
 手塚治虫が若い頃くらしていたというトキワ荘などは木賃アパートの典型でしょう。
 なぜこのような地域が形成されてしまったのか。それは、東京において戦災復興の区画整理がまともに出来ていないままに、かつ土地利用規制のしっかりした都市計画の基本法が確立していないままに、大量に流入する人口を受け入れてしまったからです。
 東京の戦災復興は、プランこそ見事だったと言われていましたが、その事業はまったくの途中で大幅に縮小され、ほとんどが頓挫してしまいました。1949年のドッジ・ラインにより、緊縮財政の方針が定まった結果、公共事業費として東京の区画整理事業が大幅に削減されることとなったのです。最終的に施行された東京の区画整理事業は、当初計画の6.8%に過ぎませんでした。
 その一方で、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需景気により、民間企業の経済活動が活発化します。その人手不足を補うために、地方から大量の若者が東京に就職していきました。さらに、木材・セメント・鉄鋼などの建設資材の統制が相ついで撤廃されたこと、住宅金融公庫が設立されたことなどにより建設活動も活発化します。
 ところが、当時の土地利用規制はたいへん緩いものでした。この時期に都市計画法改正の動きもありましたが、その法案は途中で流産してしまい(原因は不明とのこと)、したがって建蔽率容積率などの規制が緩い状態で、東京には大量の住戸が建設されていくことになります。
 こうして山手線の周囲には木賃アパートベルトが形成されていくわけです。戦後東京の都市計画は、財政政策により頓挫させられ、またその後の経済活動の活発化によって、なし崩しになっていきました。都市計画が経済政策の犠牲になるというケースはしばしばありますが、これは代表的な例といって良いように思われます。

  本来、都市計画というのは、公共事業と民間建設活動がうまくバランスをとって行われ、しかも民間建設活動が総合的都市計画によりコントロールされていてはじめてうまく行くわけです。しかし、当時の都市計画制度は民間建設活動をコントロールするには全く不充分なものだったのに、公共事業による都市基盤整備が打ち切られ、民間建設活動が活発化したのですから、都市計画的には極めて不幸な事態でした。


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参考:石田頼房『日本近代都市計画の百年』

都市計画について①

 今後から基本的にですます調に改めます。

 石田頼房『日本近代都市計画の百年』がとても面白いと思いました。
 都市計画について知るなら、日笠端・日端康雄の『都市計画』も良いと思いますが、歴史的な議論を追っていくには石田の著書が推奨されます。
 具体的な議論は次から紹介していきますが、また何回かに分けて行く予定です。

 都市計画というのは曖昧な分野だと思います。
 交通計画というのはもっぱら交通について扱えばいいし、住宅計画というのは住宅について考えていればいい。そうすると都市計画というのは、都市について扱うということになりますが、都市とはそもそも何でしょうか。
 これを考え始めると、人類とは何かとか、社会とは何かとか、答えの出ない領域に足を突っ込むことになる。こうした議論に結論は出ません。
 同様に、理想都市とは何かという議論にも結論は出ないと思います。理想社会というのが基本的にあり得ませんので、理想都市というのもあり得ません。理想都市を提唱できるのは狂人か天才のいずれかです。
 つまり、せいぜい人間にできることというのは、ある程度の論点を絞って何がより望ましいかを検討することです。
 例えば、大量の人口が首都に流れ込んでくるときに、首都人口を抑制して周辺の都市を整備するのがいいか、それとも首都を改造して巨大都市化を容認するのがいいか、こういうことは一つの論点になると思います。
 他にも、都市計画の権限は中央政府に委ねるべきか地方政府に譲るべきか、土地利用の自由または建築の自由はどこまで認められるものか、このような論点をめぐる議論が都市計画という分野を構成しているといって間違いではないでしょう。
 石田の著書は、そういう論点をめぐる議論を歴史の縦軸にして解説してくれているから、とてもありがたいわけです。