LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

都市計画について②

 これは有名な話らしい。

 山手線の外側には、木賃アパートベルトと呼ばれる地帯があります。
 過密化、建物の老朽化、高年齢層の滞留など、東京でもっとも災害危険度の高い問題市街地です。
 高度経済成長期にあたる1955年から1965年にかけて、「金の卵」と呼ばれた大量の若年労働者が、東京圏に移住していきました。その数は約350万人にのぼります。そして、彼または彼女らの住居として、大量の低質な民営賃貸木造共同住宅(以下、木賃アパート)が建設されていきます。多くの木賃アパートは、通勤および生活の上で便利な山手線のすぐ近くに立地し、中には木賃アパートが全住宅戸数の過半を占めるような地区も現れていきました。そういった地区が山手線沿いに並んでいくことで形成されたのが、木賃アパートベルトというわけです。
 手塚治虫が若い頃くらしていたというトキワ荘などは木賃アパートの典型でしょう。
 なぜこのような地域が形成されてしまったのか。それは、東京において戦災復興の区画整理がまともに出来ていないままに、かつ土地利用規制のしっかりした都市計画の基本法が確立していないままに、大量に流入する人口を受け入れてしまったからです。
 東京の戦災復興は、プランこそ見事だったと言われていましたが、その事業はまったくの途中で大幅に縮小され、ほとんどが頓挫してしまいました。1949年のドッジ・ラインにより、緊縮財政の方針が定まった結果、公共事業費として東京の区画整理事業が大幅に削減されることとなったのです。最終的に施行された東京の区画整理事業は、当初計画の6.8%に過ぎませんでした。
 その一方で、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需景気により、民間企業の経済活動が活発化します。その人手不足を補うために、地方から大量の若者が東京に就職していきました。さらに、木材・セメント・鉄鋼などの建設資材の統制が相ついで撤廃されたこと、住宅金融公庫が設立されたことなどにより建設活動も活発化します。
 ところが、当時の土地利用規制はたいへん緩いものでした。この時期に都市計画法改正の動きもありましたが、その法案は途中で流産してしまい(原因は不明とのこと)、したがって建蔽率容積率などの規制が緩い状態で、東京には大量の住戸が建設されていくことになります。
 こうして山手線の周囲には木賃アパートベルトが形成されていくわけです。戦後東京の都市計画は、財政政策により頓挫させられ、またその後の経済活動の活発化によって、なし崩しになっていきました。都市計画が経済政策の犠牲になるというケースはしばしばありますが、これは代表的な例といって良いように思われます。

  本来、都市計画というのは、公共事業と民間建設活動がうまくバランスをとって行われ、しかも民間建設活動が総合的都市計画によりコントロールされていてはじめてうまく行くわけです。しかし、当時の都市計画制度は民間建設活動をコントロールするには全く不充分なものだったのに、公共事業による都市基盤整備が打ち切られ、民間建設活動が活発化したのですから、都市計画的には極めて不幸な事態でした。


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参考:石田頼房『日本近代都市計画の百年』