LIFE LOG(カワカミ・レポート)

カワカミ・ノート

おもに都市計画やまちづくりに関わる考察などを書いていきます。

都市計画について③

 自分の職場の中に、よく休みがちな人がいる。50代くらい。
 両親の介護をしているらしい。本人も病気がちという。
 一昔前は仕事の出来る人だったようで、今の状況にも関わらず周りからは一目置かれている。彼が健常に戻ることを期待して、職場の人たちはいろいろバックアップしようとしているが、中には休みたがる彼の姿勢に対して疑問を感じてきている人もいる。
 放置すればずっと休んでしまいそうだが、周りが気を遣おうとすると、それが逆に本人からすればバリアに感じられてしまう。さらに自分を疑う者までいれば、なおさら孤立感を覚えることになる。彼の境遇は本当に苦しいものだと思う。
 いったん距離をとった組織にまた戻って活動再開するというのは、けっこうエネルギーが要る。本人が若年ならまぁ頑張れという感じだが、年配で持病があるとなるとエネルギーもなかなか出ないだろう。
 どうにかならないのか。

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 前回は、高度経済成長期に木賃アパートベルトが形成されたという話でしたが、実はその下地となる出来事がありました。それは1900年代に遡ります。
 日清戦争(1894-95)と日露戦争(1904-05)が起こったことで日本の重工業化は飛躍的に進みましたので、日本が本格的に近代化して資本主義体制になったのは1900年代ということになります。一方で、都市計画法および市街地建築物法が制定されたのは1919年ですが、それまで東京には何ら建築規制というものが無かったといわれています。
 要するに、高度経済成長期のパターンと同様、明治の東京も都市計画が済んでいないままに人を集めてしまったわけです。この時期に形成された市街地のエリアが、いずれ形成される木賃アパートベルトと一致するといいます。f:id:kawakami_takeru:20210731173259p:plain

 内務官僚の飯沼一省によれば、「明治から大正の初期にかけては、都市計画の立場からいえば一の暗黒時代であった。」とのこと。
 農地の道路がほとんどないところに家屋が次々と建てられ、乱雑で無秩序な迷路型をした市街地が出来上がっていきました。いったん市街地が出来上がってしまうと、その地域を街区割りから根本的に整備し直すことは簡単にはできません。都市の激しい変化が起きている部分というのは、上物と呼ばれる建築物や工作物の部分で、その下の土地区画のあり方を大きく変更させることができるのは、ほんの僅かな場所だけです。

 だから、明治時代の東京は戦争をやる前に、都市計画の法整備をやっておく必要があったのですが、石田によれば、これも中途半端に終わってしまっていたといいます。
 1919年に都市計画法および市街地建築物法が定められる以前、都市計画にかかわる制度として、市区改正条例(1888)と土地建物処分規則(1889)の二つがありましたが、もう一つ、建築規制のための制度として家屋建築条例が定められる予定になっていたといいます。この家屋建築条例だけは制定に至らなかったのです。どうして制定に至らなかったのかは、それに関わる文献が少ないのか不明とのこと。
 市区改正条例によって道路や上水道の整備をすすめ、用地取得の方法について土地建物処分規則によって取り決めていましたが、民間が建てる建物の建築基準について定められていたのは家屋建築条例でした。そこに記されていたのは、建築線にかかわる規定、敷地内空地にかかわる規定、建物高さにかかわる規定など、欧米建築法規に近い高い水準の規定だったといいます。
 これが流産してしまっていたために、東京はきちんとした建築基準のないまま、戦争を伴う近代化によって無秩序な市街化がすすみ、木賃アパートベルトが形成される下地が出来てしまったというわけです。この東京の経緯は、建築規制や区画整理が出来ていないままに市街化してはいけないという教訓を残しています。

 この時期に建築条例が制定されなかったため、1919年の市街地建築物法制定までの東京は、事実上何ら建築規制が無いまま市街化が進んだということは極めて不幸なことでした。東京旧15区の周辺部から、それに接する「郡部」にかけてが急速に市街化するのは1900年代に入ってからのことですが、これらの市街地形成が現在のいわゆる木賃アパートベルト地帯と一致することを考えれば、この東京家屋建築条例の流産の大きさがわかると思います。 

 

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参考『日本近代都市計画の百年』